第五話 古の民
遠い昔、ミュケナイ一帯の地は黄金に彩られていたという。金銀が泉のように湧きかえり、生者はもちろん地下に眠る死者さえも、黄金に囲まれて暮らしていたのだと。だが、その繁栄も永遠には続かず、北から押し寄せた異民族によって財宝は略奪され、住民は抹殺されてしまった。
現在この地に住む民たちは、祖先が先住民から奪い取った戦利品の恩恵にあずかっている。しかし、実はその黄金も、先住民が蓄えていた内のごく一部に過ぎないのだという伝承が密かにあった。
その古い言い伝えを知る、わずかな人間の一人――レオゴラスは、自室の石壁をゆっくりと撫でた。そこには、彼の一族が受け継いできたその伝承が彫り込まれている。
レオゴラスの家系は、代々この地を統べる有力者として君臨してきた。はるか昔、先住民襲撃の際に功を立てた先祖が、褒賞としてアルゴス湾に臨む土地を王から下されたのだという。
恐らく、この文字はその頃に彫られたのだろう。長い時を経て薄れてきているが、それだけにかえってその内容には真実味があった。
「いや……真実だったのだな」
誰にともなく、レオゴラスは一人呟いた。壁の文字をいとおしげに撫でながら、もう一方の手には葡萄酒を注いだ銀杯が握られている。彼は微笑を浮かべた薄い唇に杯をあてると、一気に中身を飲み干した。
彼の手のひらが触れる文字はこう伝える。「古の民、海より帰りて黄金への道を開かん」と――
だからこそ、彼は娘の跡をつけさせていた従者からその報告を受けた時、心ひそかに快哉を叫んだのだ。
レオゴラスは酒盃を傾けながら、部屋の壁をぐるりと眺め渡した。彼が右手で触れている石だけではない。この室内には、他にも多くの文字が刻まれているのだ。
その内のほとんどは薄れたり欠けたりして読むことはできないが、その中で最も原形をとどめているのが、この伝承の一文だった。
彼は再び葡萄酒を注いだ杯に指を浸すと、濡れたその指先で、壁の文字をゆっくりとなぞり始めた。赤い液体が壁に染み込み、刻まれた文字は血のような色に変わる。その様を悠然と見やる彼の元に、やがて待ち望んだものが届けられた。
やや乱暴に扉が開かれると、人の形をした「吉報」は、どさりと重い音を立てて冷たい床の上に投げ出された。その様を、レオゴラスは酒杯を傾けながら悠然と見下ろした。
「ここへ来るまでに、ずいぶん手荒な扱いを受けたようだな」
くく、と喉を鳴らすレオゴラスを、縛られて床に転がされた虜囚――リュシアスは無言で見つめた。それを敗者のせめてもの抵抗と見たのか、レオゴラスはさらに嗤う。
「おおかた、おまえの先祖が残した黄金を求めて、のこのこと舞い戻ってきたのだろう。つまらぬ欲を出したばかりに、このような憂き目に遭うとはな」
レオゴラスは余裕たっぷりに哄笑したつもりだった。だが、
「あんたの物差しで測られるのは迷惑だな」
「……何?」
リュシアスの言葉に、レオゴラスは眉をひそめた。自分の命を握っているはずの相手に、リュシアスはさらに冷たい視線を投げかける。
「誰も彼もが黄金を狙っていると思い込むのは勝手だが、その偏狭な考えを押しつけられるのは不愉快だ」
「……蛮人めが、生意気な口をききおる。少しは自分の立場をわきまえたらどうだ」
レオゴラスは、苦々しい声を喉の奥から押し出した。
実を言えば、蛮人と罵りながらも、彼は先住民の生き残りであるこの男を頼らねばならない状況だったのだ。
何しろすでに黄金の産出量は減少の一途をたどっていた。このまま王城への貢納がなくなれば、自分が今の地位を失うことは明白。またそれだけでなく、日ごとに増す北の脅威に怯え、侵攻を食い止めるには防備も調えねばならない。そのためには、どうしても「古の民」から莫大な黄金の隠し場所を聞き出す必要があったのだ。
「古の民、海より帰りて黄金への道を開かん――か」
不意にリュシアスが放った言葉に、レオゴラスはぎくりとした。
しかしリュシアスの視線は、一瞬怯んだレオゴラスではなく、その後ろの壁に注がれていた。つい先ほど、この部屋の主がなぞっていた文字の刻まれた壁に。葡萄酒の染みによって赤く浮き上がらせられたその文字を、彼は読み上げたのだ。
「おまえたちの望みは古の財宝だろう。それほど欲するのならば、なぜ我らを殺し尽くした。黄金の在り処を聞き出すよりも先に、なぜ地上から葬り去った。それは報復を恐れたからだろう」
リュシアスは床に転がされたままの姿勢で、レオゴラスを見据えた。優位な立場にあるはずのレオゴラスは、なぜかその視線に圧倒されて、口の中が干上がったように声を出すことができなかった。リュシアスは目だけで相手を脅かし、さらに続ける。
「我々に呪われ、いつか復讐されることに怯えたからではないのか。おまえたち北の蛮族は、極端に臆病だというからな」
「貴様……っ!」
それまで凍りついていたレオゴラスは、突然立ち上がるとリュシアスの胸倉を掴んだ。先住民の言葉による呪縛から逃れたのは、激しい怒りのせいだったかもしれない。無力な虜囚に圧倒されていたという悔しさも手伝って、レオゴラスは固く握りしめた拳で虜囚の顔を殴りつけた。
もともとろくに体力の残っていなかったリュシアスは、床に叩きつけられると、ぐったりして動かなくなった。
「……黄金の在り処はどこだ。今言えば生きて帰してやってもよいぞ」
荒い息を吐きながら、レオゴラスはうなるように声を押し出した。そもそも彼は自ら暴力を振るうようなことは滅多にない。温厚な性質というより、そうした仕事は別の人間に任せていたからだ。だがここで、怒りに任せて慣れないことをしたため、拳を震わしながらすでに息が上がっていた。
その様子をまるで鼻で笑うように、リュシアスは痛がる素振りも見せず、悠然と答える。
「蛮人に膝を折るほど、性根まで腐りたくはない」
そこまで聞くのがレオゴラスの限界だった。これ以上殴りつけるようなことはせず、彼は隣室に控える従者を呼び寄せ、虜囚を連れて行くよう指示を出した。命じられた従者は、転がされた虜囚と怒りに紅潮した主人とを見比べ、困惑したようにおずおずと訊いた。
「……よろしいのですか」
「今に自ら話したいと泣いて訴えるだろう。それまで待てばよい。だが、間違っても殺すでないぞ」
レオゴラスが厳かにそう命じると、従者たちはリュシアスを引き立てて室外へ連れ出していった。重い音を立てて扉が閉ざされると、レオゴラスは大きく息を吐き出した。
「王の後ろ盾を失えば、この街は終わりだ……」
彼の従者がその独白を聞けば、頼りなげな主の声音に驚きを隠せなかっただろう。それは、彼が今まで必死に押し隠し、口にすることを耐えてきた弱音だった。他の者たちがすべて退出した室内に、苦悩と焦燥の溶け合った歯噛みの音が響く。
レオゴラスはひどく疲れていた。そのため彼は、引き立てられてゆく虜囚にまで気を配ることができなかった。だから、その虜囚が振り向きながら室内の壁の文字を見つめていたことにも、最後まで気づかなかった。




