第二話 父の叱責
二人は何とか日没前に自邸に帰りつくことができた。「お嬢様が行方不明になった」と騒ぎ立てられないうちに、急いでイリアを自室に送り届けたラウィニアは、回廊に出ると一つ息をついた。
主の積極的で好奇心旺盛なところは長所かもしれないが、側に仕える者としてはなかなか気が休まらない。イリアの頻繁な無断外出が咎められる時、真っ先に矛先を向けられるのはラウィニアなのだから。
せめて護衛くらいはつけるよう諫めるべきか――そんなことを考えたところで、回廊の向こうから近づいてくる者があった。
「ずいぶんと捜したが、遠出でもしていたのか、ラウィニア」
「……コノンどの」
五十を過ぎたばかりのこの男は、大勢いる使用人たちの中でも筆頭に当たる。当主レオゴラスの祐筆を務め、使役される身ではあるが、ラウィニアなどよりずっと位は高かった。
「お嬢様の外出好きにも困ったものだが、それをお止めするのがおまえの役割ではないのか」
「申し訳ありません」
間髪入れず、ラウィニアは頭を下げた。位が違うということだけでなく、この口うるさい使用人頭の叱責からなるべく早く解放されたかったのだ。
だがコノンは顎を撫でながら、しおらしく謝るラウィニアを細めた目で見下ろした。
「ほう、では今日もお嬢様と出かけておったのだな」
その冷えた声に、ラウィニアは睨むようにコノンを見上げた。せっかく謝ったのに、かえってそれが言葉尻を捉えられることになり、彼女は憤りを隠せなかったのだ。
「いまさら隠したところで無駄だろう」
コノンは小馬鹿にしたように軽く笑ってみせた。その歳には不似合いなほど、彼は笑うと顔の中央に皺が寄ってひどく悪相になる。歪んだ微笑にますます腹を立てるラウィニアを見やりながら、コノンはさらに言葉を続けた。
「だが実際、笑って済ませられるような状況ではないのだ。近頃は、粗野な蛮族どもの姿をよく見かけるようになったからな。食うに困った者が街を荒らしにやって来ているのだろう。それで近々、北の城門を一つ閉めるらしい」
最近、街外れで異民族の集団を見ただの、城内に浮浪者が増えただのと、物騒な話をよく聞くようになった。北の民はおおむね粗暴で、好戦的な種族だと言われている。もし大量に押し寄せて来たら、ひとたまりもないだろう。何しろ彼らは強力な武器を携えており、街の貧弱な装備ではとても対応できない。
だからこそ城門を閉ざすという道を選んだのだろうが、そんなことをしても根本的な解決にはならないのに、とラウィニアは思う。もちろん、彼女がそう思ったところで状況が変わるわけでもないのだが。
「いずれにせよ、外出の件は旦那様にもご注進申し上げておいたゆえ、お嬢様もさすがに思いとどまられるだろう」
「旦那様に……お知らせしたのですか」
ラウィニアはあえぐように低く声を押し出した。彼女の心中を察しているのか、コノンはいっそう顔に皺を寄せた。
「当家の主はレオゴラス様ただお一人。よもや忘れたのではなかろうな、ラウィニア?」
無言の彼女を見下ろし、まるで面白がるように唇を歪めながら、コノンは傲然と告げる。
「もとよりおまえは他に行くあてのない身。そのことを肝に銘じ、心してお仕えするのだぞ」
肩を揺らして立ち去るコノンの背を、ラウィニアは下唇を強く噛みしめたまま見送った。哄笑する彼の面相が、いっそう歪んでいることを確信しながら。
自室に戻ろうとしたイリアは、最も聞きたくない声を背後から浴びることになった。
「うちの娘は悪い遊びを覚えたようで困ったものだな」
「……お父様」
こうなっては逃げることもできず、イリアはおずおずと振り返る。そこには渋い顔をした父レオゴラスが腕組みしながら立っていた。
「悪い遊びだなんて、そんなことしていません。ただ少し散歩をしていただけです」
「侍女一人を連れただけでか? 危険極まりない散歩だな」
どうにも嫌味としか思えない父の言いように、イリアは苦々しく下唇を噛んだ。
「そんな……大げさすぎます」
「おまえは何もわかっとらん。近頃はこの街もずいぶん物騒になっておるのだ」
レオゴラスは大仰に息を吐き出して、腕を組むと再び口を開いた。
「北から流れてきた蛮族どもが、ずいぶんと悪さをしているそうだ。おまえのような若い娘がふらふらと街を歩けば、何をされるかわかったものではない」
「……そのお話は初めて聞きますが」
イリアはうらめしそうな目で父親を見上げた。北の異民族の話は、下々の者ならみな知っているとラウィニアは言った。だが、そればかりでなく、今の口ぶりではこの父もずいぶん前から知っていたようだ。
何も聞かされず、まさに世間知らずのお嬢様として扱われていたのだと改めて気づき、イリアの表情はますます苦いものとなる。
「おまえが家でおとなしくさえしていれば、聞く必要もないことだ」
レオゴラスは、娘の心情になど興味がないと言わんばかりに切り捨てた。彼は睨むような視線を向けてくる娘に、冷然と言い放つ。
「それに、嫁入り前にこれ以上、妙な噂が立っては困るからな」
「妙な噂だなんて――」
「いずれにせよ、輿入れも間近な娘が外を出歩くのは感心せん。今後は慎みをもって自重するのだぞ」
イリアの声を遮るように、レオゴラスはきっぱりと命じた。その内容に、イリアはいっそう声を荒げた。
「輿入れって……そんな! あの話は相手が亡くなって取り止めになったのじゃなかったの!?」
「花婿候補は何も一人に限ったものではない。立派な相手はいくらでもおるのだから、心配するでないぞ」
それだけ言うとレオゴラスは娘に背中を向けて、一切の反論を遮断した。
自室に入るなり、イリアは寝台に身を投げ出した。輿入れが迫っている――その事実に気づかなかったのは、うかつだった。いや、恐らくはイリア本人にぎりぎりまで黙っているつもりだったのだろう。
普通、十六というイリアの年齢では、裕福な家の娘はたいてい結婚しているものだ。イリアも本来は慣例に倣うはずだったのだが、四年前に親同士の決めた婚約者が呆気なく病没してしまったため、彼女の縁談は宙に浮いてしまったのだった。
一度も会ったことも垣間見たことすらもない婚約者の訃報に、彼女は何の感慨も抱かなかった。ここでそら涙の一つでも見せておけば丸く収まるのに、とラウィニアなどは言うが、イリアは自分の信念を曲げないたちなので、自分を偽るようなことはとうていできなかった。
結局、泣きも嘆きもしない十二歳の少女はその時から不祥の女とされ、自邸の中でも扱いが粗略になっていった。そうでなければ街一帯を統べる名家の娘が、無断外出など覚えるはずもない。
しかし、ここへ来て急に口うるさくなり始めたのは、再び縁談が持ち上がっているためなのだろう。
イリアは寝台に顔をうずめたまま、深く息をついた。激しい感情の一端が深呼吸によってわずかにゆるんだ、その時だった。
(――お嬢様の逢引の邪魔をするわけにはいきませんから)
不意にラウィニアの声が脳裏をよぎり、イリアは慌てて打ち消すように首を振った。
ラウィニアは面白がってからかうが、実際にはまったくそんな気はないのだ。行き倒れていた人間を見捨てられなかっただけ。そこに思慕も恋情もありはしない。強いて言えば――哀れみだけだ。
そのまま放っておくのにしのびなかったから、つい救いの手を差しのべた。それだけのことに、妙な邪推をされてはかなわない。
イリアは寝台の上で半身を起こし、深く息を吸い込むと、大声を張り上げた。
「ラウィニア! そこにいるの?」
まるで呼ばれるのを待っていたかのように、衝立の向こうからラウィニアが顔を出した。
「いかがなさいましたか? お嬢様」
まったくいつの間にそば近く控えていたのかと、感心するより半ば呆れながら、イリアは指示を出した。
「明日の三人分のお弁当を調達してきてくれる?」
「明日も、出られるのですか?」
ラウィニアは明らかに不服げだった。歓迎されないことは百も承知なので、イリアは短く答える。
「私は約束を破りたくないの」
「でも……旦那様からご注意を受けたばかりでしょう」
「そんなこと知らないわ。とにかく明日は出るの。明後日以降はともかく」
イリアが言い出したら聞かないことを充分心得ているラウィニアは、仕方ないと深く溜息をついた。
「わかりました。その代わり、明日も私がお供いたしますからね」
「当然でしょう。だから三人分って言ってるじゃない」
偉そうにそう言った後で、イリアは少し笑って片目をつぶってみせた。
「ただし、怒られる時も一緒だからね」
その一言に、ラウィニアは苦笑をもらした。




