第九話 裏切りの風
永禄十一年── 一五六八年の初冬。
駿府の空は、冬の気配を孕みながら、どこか重く沈んでいた。
その日、城中にひそやかな噂が流れ始めた。
──武田信玄が、駿河を狙っている。
最初は風のような噂だった。
しかし、風は次第に冷たさを増し、
やがて城の隅々まで染み込むような“現実”へと変わっていった。
氏真は、父の死から八年。
今川家の当主として、必死に家を支えてきた。
だが、武田信玄の動きは、
その努力を嘲笑うかのように静かで、速かった。
「信玄公が、駿河へ兵を動かしていると……」
家臣の声は震えていた。
氏真は、深く息を吸った。
「……なぜだ。
甲相駿三国同盟は、まだ生きているはずだ」
しかし、その言葉は虚しく空に消えた。
同盟は、父たちの時代のもの。
今は、戦国の風がすべてを塗り替えようとしていた。
その頃、相模の北条では、
氏規が外交の場に立つようになっていた。
兄たちの背中を見ながら、
彼は静かに、しかし確かな成長を遂げていた。
ある夜、氏規は密かに筆を取った。
灯火が揺れ、影が壁に長く伸びる。
『氏真様
武田が動いております。
駿河に危機が迫っています。
どうか、備えを怠りなく。
我らの誓いは、今も変わりません。
──氏規』
その筆跡は、幼い頃の震える文字ではなかった。
外交官としての覚悟と、
友を思う強さが宿っていた。
氏規は、書状を密使に託した。
「急げ。
駿府が落ちれば、氏真様は……」
言葉を飲み込んだ。
胸の奥が痛んだ。
数日後、密書は氏真のもとに届いた。
氏真は、静かに封を切り、
氏規の文字を読み進めた。
「……氏規……」
胸の奥に、冷たい風が吹いた。
だが同時に、温かいものもあった。
──三人の誓いは、まだ生きている。
家臣たちは動揺し、
城中は不安と疑念で満ちていた。
「武田が攻めてくるぞ!」
「北条は裏切ったのか!」
「三河の徳川も攻めてくる気配が!」
声が飛び交う中、
氏真は静かに目を閉じた。
「家康は……竹千代は、私を裏切らぬ」
その確信は、
政治の計算ではなく、
少年の頃に交わした誓いから生まれたものだった。
その頃、三河では家康が密かに動いていた。
「今川は滅びる。
だが、氏真様を完全に見捨てることはできぬ」
家臣たちは反対した。
「殿! 今川はもう終わりです!」
「武田と我ら三河勢が動けば、駿河は持ちませぬ!」
家康は、静かに言った。
「終わりかどうかは、私が決めることではない。
……だが、誓いは守る」
その言葉は、
少年の頃の竹千代の声と重なっていた。
駿府に吹く風は、
日に日に冷たさを増していった。
武田の影は、
山の向こうからじわりと迫り、
今川家の足元を静かに侵食していく。
だがその中で、
三人の心はまだ繋がっていた。
──裏切りの風が吹き荒れる中で、
三人の誓いは、静かに、しかし確かに息づいていた。




