第八話 桶狭間の衝撃
永禄三年── 一五六〇年、初夏。
駿府の空は、梅雨の気配を孕みながらも、どこか落ち着かぬ色をしていた。
その日、城中に走った知らせは、
風ではなく、雷のように鋭かった。
──今川義元公、討死。
桶狭間にて、織田信長の奇襲を受け、
駿河の太守は無念の最期を遂げた。
知らせが届いた瞬間、
氏真はしばらく言葉を失った。
父の死。
家の柱の崩落。
そして、己が今川家の当主となるという現実。
「……父上が、討たれた……?」
声は震えていた。
だが涙は出なかった。
あまりに突然で、心が追いつかなかった。
家臣たちは動揺し、
誰もが声を荒げ、
駿府の空気は乱れに乱れた。
「織田が攻めてくるぞ!」
「三河は裏切る!」
「武田が動くかもしれぬ!」
恐怖と疑念が、城中を満たしていった。
氏真は、ただ静かに立ち尽くしていた。
その頃、三河では竹千代──
いや、すでに“松平元康”と名乗っていた若き武将が、
独立への道を歩み始めていた。
だが、彼の胸には、
駿府で交わした誓いが残っていた。
「氏真様を……見捨てるわけにはいかぬ」
家臣たちは反対した。
「今川はもう終わりです!」
「三河を守るためには、今川と手を切るべきです!」
元康は静かに言った。
「手を切ることと、見捨てることは違う。
私は……あの方を裏切らぬ」
その言葉は、
少年の頃に交わした誓いの延長線上にあった。
駿府の一室で、氏真はひとり座っていた。
父の死を悼む暇もなく、
家臣たちの不安と怒号が押し寄せる。
「私は……どうすればよいのだ」
その呟きは、
誰にも届かぬほど小さかった。
その時、
一通の書状が届いた。
差出人は、松平元康。
『私は、あなたを見捨てません。
たとえ道が分かれようとも、
誓いは生きています。』
氏真は、初めて涙を落とした。
「……竹千代……」
父を失い、家を失いかけ、
すべてが崩れ落ちる中で、
ただ一つ残ったものがあった。
──三人で交わした誓い。
その頃、相模の北条では、
氏規が兄たちと共に政務に携わり始めていた。
桶狭間の知らせを聞いた氏規は、
すぐに駿府へ書状を送った。
『氏真様、どうかご無事で。
我らの誓いは、今も変わりません。』
三人の道は、
確かに分かれ始めていた。
だが、
その心はまだ繋がっていた。
──戦国の嵐が吹き荒れる中で、
三人の誓いは、静かに、しかし確かに息づいていた。




