表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
東海道の弓取たち  作者: 双鶴


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/20

第三話 北条の若君

天文十七年── 一五四八年の春。

駿府の城下に、北条家の使節が到着したという知らせが広まった。

甲相駿三国同盟の結び目として、北条と今川の往来は珍しくない。

だが、その一行の中に、幼い若君がいるという噂が、城の空気をわずかに揺らしていた。


その日、氏真は庭の片隅で和歌を書いていた。

白い紙の上に、春の光が淡く落ちる。

筆先が紙を滑る音は、風のさざめきと溶け合い、

庭全体がひとつの静かな器になったようだった。


「……美しい」


小さな声がした。

氏真が顔を上げると、

庭の入り口に、見慣れぬ少年が立っていた。


北条氏規──

相模の名門に生まれた、まだ幼い若君。

使節に同行し、駿府を訪れたばかりだった。

この時点では、氏規もまた人質である。


氏規は、氏真の和歌に吸い寄せられるように歩み寄った。

その瞳は、年齢に似合わぬほど澄んでいて、

どこか遠いものを見つめるような静けさを湛えていた。


「これは……春の歌、ですか」


氏真は微笑んだ。


「そうだ。

 春は、言葉にしなければすぐに過ぎてしまう。

 だから、こうして留めておく」


氏規は、紙に描かれた文字をじっと見つめた。

その表情には、武家の子に似つかわしくないほどの繊細さがあった。


「……私の家では、和歌を詠む者は少ないのです。

 兄たちは皆、武ばかりで」


その言葉には、幼いながらも“居場所の狭さ”が滲んでいた。


氏真は、そっと筆を置いた。


「そなたは、武よりも文に心が向くのだな」


氏規は、少しだけ恥ずかしそうに頷いた。


「はい……。

 けれど、武家に生まれたからには、

 文ばかりではいけないと、皆に言われます」


その声は、春の風に溶けるほど小さかった。


その時、庭の向こうから足音がした。

竹千代が、静かに姿を見せた。


「氏真様、先ほどの蹴鞠の続きを──」


言いかけて、竹千代は氏規に気づいた。

氏規もまた、竹千代を見つめ返す。


二人の間に、短い沈黙が落ちた。

だが、その沈黙は重くはなく、

むしろ互いの孤独を映し合う鏡のようだった。


氏真が、二人の間に柔らかな声を落とした。


「紹介しよう。

 こちらは北条氏規。

 相模から来た若君だ」


竹千代は丁寧に頭を下げた。


「三河の竹千代と申します」


氏規も、ぎこちなく頭を下げた。


「北条氏規です。

 ……和歌が、お上手なのですね」


その言葉に、竹千代は少し驚いた。

武家の子が、和歌を褒めるなど珍しい。


氏真は、二人を見比べて微笑んだ。


「そなたたちは、似ている」


「似ている……?」


竹千代と氏規が同時に問い返す。


氏真は、春の光を受けて揺れる庭を見渡した。


「武の家に生まれながら、

 武よりも別のものに心が向く。

 ……その在り方が、どこか似ているのだ」


竹千代は目を伏せ、

氏規は小さく息を呑んだ。


氏真は続けた。


「そなたたちがここにいるのは、

 家のため、国のため。

 だが──

 心までは、誰にも縛れぬ」


その言葉は、

春の光よりも柔らかく、

三人の胸に静かに染み込んだ。


氏規が、ためらいがちに口を開いた。


「……もしよければ、

 その……蹴鞠というものを、見せていただけませんか」


竹千代は、ふっと笑った。


「私も、昨日教わったばかりです。

 一緒にやりましょう」


氏真は、白い蹴鞠を手に取り、

三人の間にそっと放った。


白い球は、春の光を受けてふわりと舞い、

三人の足元へ転がった。


その瞬間、

駿府の庭に、

新しい風が吹いた。


それは、

三人の運命を静かに結び始める、

最初の小さな息吹だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ