第十一話 小田原の庇護
永禄十二年── 一五六九年、春。
駿府を追われた氏真は、
わずかな供を連れて相模へと向かっていた。
山道にはまだ冬の名残があり、
冷たい風が衣の裾を揺らした。
「……私は、どこへ行くのだろう」
父を失い、国を失い、
今川家の当主としての誇りも、
もはや形を保てなくなっていた。
だが、胸の奥にはひとつだけ残っていたものがある。
──氏規が送ってくれた密書。
『必ず守る』と書かれた、あの文字。
その言葉だけが、
氏真を前へと歩かせていた。
小田原城の門が見えた時、
氏真は思わず足を止めた。
「ここが……北条の城……」
その時、門の向こうから声がした。
「氏真様!」
駆け寄ってきたのは、
北条氏規だった。
幼い頃の面影を残しながらも、
その姿はすでに立派な武将のそれだった。
氏規は、深く頭を下げた。
「よくぞ……ご無事で」
氏真は、言葉を失った。
胸の奥に、熱いものが込み上げた。
「氏規……
そなたが……そなたが呼んでくれたのだな」
氏規は、静かに頷いた。
「はい。
氏真様は、私の友です。
どれほど世が乱れようとも、
その事実は変わりません」
その言葉は、
戦国の冷たい風を溶かすほど温かかった。
氏規は、氏真を城内へ案内した。
兄・氏政もまた、氏真を丁重に迎えた。
「今川殿。
我ら北条は、そなたを客将として迎える」
その言葉に、氏真は深く頭を下げた。
「……感謝いたします」
だが、胸の奥では別の思いが渦巻いていた。
──私は、守られる側になってしまったのか。
その苦さを、
氏規は敏感に感じ取っていた。
「氏真様。
あなたは敗者ではありません。
ただ……時が悪かっただけです」
氏真は、かすかに笑った。
「そなたは、昔から優しいな」
その夜、
氏規は氏真を静かな庭へと誘った。
月が雲間から顔を出し、
庭の石畳を淡く照らしていた。
氏規は、懐から一通の書状を取り出した。
「これは……?」
「家康殿からです。
駿府が落ちた後、密かに送られてきました」
氏真は震える手で封を解いた。
『氏真様
私は、あなたを見捨てません。
道は違えど、誓いは生きています。
どうか、生きてください。
──家康』
氏真は、目を閉じた。
「……竹千代……
そなたも……そなたも、まだ……」
氏規は、静かに言った。
「三人の誓いは、まだ終わっていません。
氏真様が生きている限り、
家康殿も、私も……
必ずそなたを支えます」
氏真は、月を見上げた。
「……生きることが、こんなにも苦しいとは思わなかった」
氏規は、そっと氏真の肩に手を置いた。
「苦しいからこそ、三人で誓ったのです。
“生き残る”と」
氏真は、ゆっくりと頷いた。
「……ああ。
あの誓いだけが、今の私を支えている」
月の光が、二人の影を長く伸ばした。
その影は、
遠く三河の空の下にいる家康へと、
静かに繋がっているように見えた。
──こうして、
駿府を失った氏真は、北条の庇護を得て再び立ち上がる。
三人の誓いは、
戦国の嵐の中でも、確かに生きていた。




