第十話 駿府炎上
永禄十一年── 一五六八年、冬。
駿府の空は、重い雲に覆われていた。
その雲は、まるでこれから訪れる破局を予感しているかのようだった。
武田信玄が動いた。
その報せは、風よりも早く、
雷よりも鋭く、
駿府の城を貫いた。
「武田軍、駿河へ侵入!」
叫び声が城中を駆け抜けた。
家臣たちは狼狽し、
誰もが声を荒げ、
駿府の空気は一瞬で乱れた。
氏真は、静かに立ち尽くしていた。
「……ついに来たか」
父の代から続いた甲相駿三国同盟は、
もはや形だけのものとなっていた。
信玄は、迷いなく駿河へと進軍していた。
城の奥で、氏真はひとり座っていた。
家臣たちの声は、もはや耳に入らなかった。
「私は……何を守れたのだろう」
父を失い、
家臣の心は離れ、
国は崩れようとしている。
その時、
ひとりの家臣が駆け込んできた。
「若殿! 北条より密使が!」
氏真は顔を上げた。
密使は、深く頭を下げ、
一通の書状を差し出した。
差出人──北条氏規。
氏真は震える手で封を切った。
『氏真様
武田軍は速い。
駿府は長く持ちませぬ。
どうか、逃げてください。
私は必ず、あなたを助けます。
──氏規』
その文字は、
幼い頃に駿府で見た、あの優しい筆跡のままだった。
氏真の胸に、熱いものが込み上げた。
「……氏規……」
その頃、相模の北条では、
氏規が兄たちと対立していた。
「氏真を助けるなど、北条の利益にならぬ!」
「武田と敵対する気か!」
兄たちの声は鋭かった。
だが氏規は、静かに言った。
「私は、氏真様を見捨てられません。
それに、我らが妹の婿殿ではありませんか
そして……あの方は、私の友です」
兄たちは呆れたように息を吐いた。
「戦国に義理や友情など通じぬ!」
氏規は、まっすぐに兄たちを見返した。
「通じぬなら、私が通すまでです」
その言葉は、
幼い頃に交わした誓いの延長線上にあった。
武田軍は、雪崩のように駿府へ押し寄せた。
城下は混乱し、
炎が上がり、
人々の叫びが夜空に響いた。
氏真は、わずかな家臣と共に城を出た。
「若殿、急ぎましょう!」
「……私は、どこへ向かえばよいのだ」
その問いに答えたのは、
闇の中から現れたひとりの影だった。
「こちらへ」
氏規の密使だった。
「氏規様より──
『必ず守る』との伝言です」
氏真は、目を閉じた。
「……氏規……」
炎が夜空を赤く染める中、
氏真は駿府を後にした。
その頃、三河では家康が密かに動いていた。
「駿府が落ちたか……」
家臣が言うと、
家康は静かに頷いた。
「氏真様は、無事か」
「北条が助けたとの噂が……」
家康は、深く息を吐いた。
「ならばよい。
……あの方は、生きねばならぬ」
家臣が問うた。
「殿は、今川をどうされるのですか」
家康は首を振った。
「見捨てはせぬ。
だが、助けることもできぬ。
……今は、ただ祈るだけだ」
その声は、
少年の頃の竹千代のままだった。
駿府は炎に包まれた。
今川家は崩れ、
戦国の風は冷たく吹き荒れた。
だがその中で、
三人の誓いは確かに生きていた。
氏真を救ったのは、
北条氏規の決断。
その背後には、
家康の沈黙の祈りがあった。
──戦国の炎がすべてを焼き尽くす中で、
三人の絆だけは、燃え尽きることなく残った。




