遥か彼方へ②
エレベーターが到着して、ドアが開いた。
ビルの廊下のような、だけど近未来的な作りの通路だった。
その先には、金属の壁が見えた。あれがロケットなのだろう、いよいよだ。
教官を先頭に、スコットさん夫妻が続き、その後ろに僕が、最後尾にハルカの並びで歩く。
決まっているわけじゃない。
ただ、自然とそうなっていただけだ。
通路の外を、風の音が聞こえる。そして、わずかにゆらゆらと揺れている。この通路が高すぎるが故だろう。
ロケットの扉の前に立った僕らに、教官がご機嫌な様子で声をかけてきた。
「さあ、これから俺たちは地球としばらくお別れだ。今のうちに地面の感触を刻んでおけよ?」
映画のセリフみたいだな、と思ったけれど、それは事実だ。
教官が扉の開閉ボタンを操作すると、鈍い音とともに、ゆっくりと扉が開いた。教官は開いた扉の前に立ち、まずは僕たちに入るよう促した。
スコットさんが先に内部に入り込む。次に、スコットさんに手を引かれて夫人が。
その次に僕が扉の前に立った。扉は飛行機よりもさらに分厚い。
足元を見ると、通路とロケットの隙間は完全に密着しておらず、ほんのわずかな隙間から下が見えた。風も隙間から音を立てて吹き付けてくる。
一瞬足がすくんだが、それでも僕は一歩を踏み出して、地球から足を離した。
ロケットに乗り込んだ瞬間、外の風の音が嘘のように消え、物音が一気に鎮まりかえった。
エンジンのアイドリングのような低い音と、わずかな振動だけが残った。
ふと通路に振り返ると、ハルカはまだロケットに乗り込んでいなかった。
ハルカの視線は、足元のわずかな隙間、その先に見える地面に向けているようだった。そして、僕と目が合うと、小さく呟いた。
「……カナタ、怖い」
……そうだね。確かに、全てのスケールが違いすぎる。
高さも、風の音も、このわずかな振動も、異質なロケットも。その全てが怖いんだろう。
そばに立つ教官は急かすことなく、ハルカに語りかけた。
「焦らなくて良い。深呼吸して、ゆっくりと足を前に出すんだ。なに、落ちやしない」
ハルカは頷いていたけど、まだ余裕はなさそうだった。
僕は、ハルカのすぐそばに近づいて、ロケットの中から声をかけた。
「僕が乗り込めたんだ。ハルカなら大丈夫だよ」
そう言ってハルカに手を差し出した。
ハルカは僕の手をしばらく見て、それからそっと繋いできた。
「大丈夫。さあ、僕の手を辿って」
ハルカは小さく頷いて、勢いよく足を大きく踏み出した。
そんな大きな一歩は不要なんだけどな……
前のめりで乗り込んできたハルカを、僕は体ごとキャッチした。
「……はあ〜……怖かった……」
そう言うハルカと僕の距離が近い。
だけど恥ずかしいとか、そんな気持ちはなかった。
――
ロケットの中には大きなマッサージ器のようなシートがいくつもあり、スコットさん夫妻はすでに隣り合う席に座っていた。
僕とハルカも、空いているシートに並んで座った。
程なくして教官も中に入ってきた。
ズズン…という重厚な音と共に、扉が閉じられた。その瞬間、風の音…いや、外の音は、完全に遮断された。ここは宇宙に行くための、巨大な密閉空間となったのだ。
「さあ、いよいよだぞ。訓練通りに離陸姿勢を取るんだ」
教官の言葉を受けて、僕たちはベルトを締め、座席を完全に倒して、体を地面と平行にする。
それを教官が全員分、しっかりと確認した。
問題なかったのか、ひとりずつに親指を立てて行った。
ふと天井を見ると、別フロアへ繋がるための穴が空いている。
ハシゴ…と言うか取手がかかっているが、その作りは地上で使うためのものには見えない。
どう見ても無重力を前提に、そこを掴んで移動するための作りだった。
「管制室。準備は終わった。これから予定通り発射シークェンスに入る。まずはエンジンステータスのチェックを——」
それから、しばらく教官が延々と外部と通信をしていた。基本はオートパイロットだから、すぐに打ち上がると思ったのに。
教官と管制室の声が飛び交う中、横に座っていたハルカがあくびをしていた。
「くあ〜……。緊張してるはずなのに、あくびって出ちゃうよね」
それは生あくびと言うやつだ。だけど繰り返しあくびをするハルカにつられて、僕もあくびをしてしまう。
「……寝てる間に宇宙に行ってたら楽なのにね」
僕がそう言うと、スコットさんは「違いないね」と笑っていた。
その時、ロケットのエンジン音が一際大きくうなり始め、小さな地震のような振動が走り始めた。
「さあ、100秒後に発射だ。姿勢は大丈夫だな?お祈りは済ませたか?」
いつの間にか離陸姿勢に入った教官はご機嫌な様子で声を上げた。
いよいよだ。これから、僕たちは月へ飛び立つ。
機械音声が淡々とカウントダウンを始めた。
〈100、99、98…〉
すぐ隣の席のハルカを見ると、肘掛けの上に置いた指先が白くなるぐらい力が入っていた。緊張しているようだ。
少しだけ顔を起こしてスコットさん夫妻にも目を向けると、ふたりは肘掛けの上で手を繋いでいた。そして、それぞれの空いた手で、胸の前で十字を切っていた。
明らかに、強く緊張しているようだ。
…僕は、緊張よりもワクワクが上回っていた。
過去に世界旅行をした時は、周りは楽しそうにしている中で、僕はずっと退屈していたのに。
こんなことは初めてだった。
僕は今、この状況に猛烈な「生」を感じている。
〈…50、49、48…〉
淡々とカウントダウンは進んでいく。
またハルカに目を向けると、今度はこっちを見ていて、目が合った。
「カナタ……どうしよう、すごく怖い……」
彼女の口から、またしても弱音が出てきた。
信じられない。いつもどんな訓練も、軽口を飛ばして楽しそうにこなしていたのに。
……だけど考えてみたら、ハルカは僕よりも歳下の、ごく普通の大学生だ。これまで普通の人生を歩んできて、運良くこのツアーに当選しただけだ。
これから先、何かあれば命の保証はない。その現実を感じて、急に不安でたまらなくなってしまったのだろう。
環境に恵まれていろんな経験をしてきた僕や、酸いも甘いも、二人で耐えてきたスコットさん夫妻とは違うのだ。
〈30、29、28…〉
…
カウントダウンは止まることはない。
ハルカは、今にも泣きだしそうな、助けを求めるような目でこっちを見ていた。
その顔を見て、ふと、熱を出した僕を夜通し看病してくれたハルカの言葉を思い出す。
『……じゃあさ、もし、今度私がダウンしたら、ちょっとだけ手を貸してよ』
……今、手を貸さないでいつ貸すんだ。
僕はハルカに寄り添いたくなった。
だけど今そんなことをしたら、離陸時に僕だけが大変な目に遭ってしまう。
だから僕は、肘掛けの上に置かれた、ハルカの手をそっと握った。
僕らしくない。わかっている。
だけど、この不安そうになっている彼女を、どうしてもほっておきたくなかった。少しでも安心させたかった。
「…カナタ?」
「…教官も言ってたろ。大丈夫。落ちやしないよ」
〈…10、9、8…〉
尚もカウントダウンは進む。
ハルカは僕の手を力強く握ってきた。痛い。
いつかのショッピングモールで、手を強く握られた日を思い出す。痛い。
今はきっと、不安の全てを込めているのだろう。
構わない。今はこの痛みごと、僕が抱えてやる。
〈…3、2、1〉
〈0(ゼロ)〉
その瞬間、ロケット内にとんでもない轟音が響いた。




