感染 rainy day
雨の音で目が覚めた。
遠くからは川の流れる音。
緑色のポリエステルの天井が、うっすらと日の光を透かしている。
昨日も、今日も雨は降らない予報だった。
だから出かけてきたのに。
俺は恨めしそうにポツポツという音を見上げる。
パソコンの前で神経をすり減らすだけの職場から離れ、やっとキャンプの時間をとれたのに。
寝袋から半身を起こし、両手を伸ばして大きく欠伸をする。
帰ってからテントを乾かすのが面倒だなと、ぼんやりと思う。
乗ってきたバイクは外にある。シートまで濡れてしまっているんだろうな。
朝食の準備をしなくては、と思ったが外は雨。
俺は隣のテントに聞こえない様、小さな音でラジオをつける。
そして、クーラーボックスの中を思い、火を使わない食事を考える。
『……外に出ないでください。とにかく雨に当たらない様に気をつけてください』
ラジオからの声。アナウンサーの慌てた様子が伝わってくる。
いつもの話だ。メディアはいつも小さな事を大きく騒ぎ立てる。
確かに強い雨だけど、騒ぐほどのものではない。
『感染した人に気をつけてください。感染していない人に襲いかかることがあります』
ラジオからのアナウンス。
感染? また新種の風邪が流行っているのだろうか?
『襲われた場合、感染者の体液から感染する可能性もあります。屋外に出ないでください』
不審な事を言っている。ゾンビ映画じゃあるまいし。
『専門家からの報告です。先生、どうぞ』
『本日、未明からの混乱は、新種のウイルスの可能性があります。ウイルスは昨晩からの雨に混じって拡散しており、粘膜や皮膚から侵入して感染すると想定しています。雨に当たらない様、感染者と接触しないよう気を付けてください』
冗談じゃない。ここはキャンプ場だ。しかも俺はテントの中にいる。
俺は頭を掻きむしった。
この放送が確かなら、俺は雨が止むまでテントから出られないのか。
そもそも、ラジオで言っている雨とここの雨は同じものなのか?
確かめるには外に出るしかない。いや、外に出て本当だったらどうする?
ジッパーの音がした。
音の長さからして、おそらくテントのジッパーだ。
次いで、砂利が押しつけられる音がした。おそらく足音だ。
音が遠ざかっていく方向から、トイレを目ざしている事がわかる。
今、テントから出た宿泊客は何事もない様にトイレへと向かっている。
なんだ、ここは平気なんだなと思った。
ラジオの放送はどこの地域の話なのだろう? 脅かしやがって。
「パパー、どこに行ったの?」
子供の声が聞こえた。隣の、もう一つ隣のテントに家族連れがいた事を思い出す。
ジッパーの音がした。そして、小さな足音が聞こえる。
唸り声が聞こえた。狼か、狂った野犬を思わせる太い声。
その後、砂利を蹴る音がたくさん聞こえた。
トイレの方向からこちらに向かって近づいてくる。
「キャ」
短い子供の声が聞こえた。
「さやか?」
女性の声。
続いて砂利を走る音。
背筋が凍る様な、唸り声。
「あなた、なんなの? やめて、あな……」
女性の声が止まった。
そのあとしばらく、女性の叫び声と何かを食いちぎる音が続いた。
次いで、咀嚼音と何かを引き裂く音だけになった。
俺は凄惨な光景を想像した。
父親が、子供と妻を襲い、その生肉を貪る光景を。
そして、それを証明するかのように、外からの音が聞こえている。
俺はラジオを切り、調理のためのナイフをデイパックから取り出す。
これを使うと俺は殺人罪に問われるのだろうか。それとも正当防衛?
ラジオの放送を思いだす。
感染者に襲われる? ゾンビ映画かよ。
「あんた、なにしてるんだ?」
ジッパーの音がして、男性の声が聞こえた。
おそらく、ソロで来ていた隣のテントの男だ。
「あんた、それ奥さんだろ? それに子供まで。何やってるんだ?」
男の怒鳴り声が聞こえる。
ザ、ザ、ザ。
男に足音が近づく。
「やめろ、何するんだ」
足音から逃げるもうひとつの足音。
唸り声が低く響く。
二つの追いかけ合う足音が俺のテントに向かってくる。
どうする? 逃げるべきか。いや、雨に打たれると俺まで感染してしまうだろう。
俺はテントの中で押し黙ったまま調理ナイフを握りしめる。
「やめろ!」
男の声。
ドス。
俺のテントに何かが当たる音がして、赤いシミをつける。
胴体から離れた、生々しい腕がテントの向こう側から影を落とす。
そのあと、周囲を歩き回る音が二つに増えた。
ラジオは感染者が非感染者を襲うと言っていた。
ソロの男も感染したのか、と思った。
ザ。
ザ。
足音と小さな唸り声が、テントの布一枚隔てた先から聞こえてくる。
けれどもその足音は、ゆらりゆらりと遠ざかっていく。
雨の情報を仕入れなければと思い、俺はイヤホンを取り出してラジオに差し込む。
おそらく感染者は音に反応するのだろうと思ったから。
父親は、さっきの「パパーどこへ行ったの?」という声に反応して娘を襲ったのだ。
音が漏れない事を確認してからラジオのボリュームを開けた。
『追加情報です。感染者は、音と人間の姿に反応することがわかりました。感染者と遭遇した場合は、物陰に隠れて音を立てない様にして遠ざかるのを待ってください』
アナウンサーは繰り返している。
俺の推察は間違いなかった様だ。
それに、姿が見えなければいいのなら、テントの中にいれば安心ということか。
しかも、テントから出なければ雨からも逃れる事ができる。
生地に雨が当たる音を聞きながら、俺は胸を撫で下ろした。
雨音は、起きた時より強くなっている気がする。
強い風がテントを左右に押し付ける。
いつ雨が上がるのか予想ができない。
俺は、食料の残りを確認することにした。
クーラーボックスを開けてみる。
食べられそうなものは、今日の朝食として準備をしていた食材、それと昨夜の残りなど。
おおよそ半日程度なら過ごせそうな量がある。
今朝から何も食べていないので腹は減っている。
けれど、さっき想像した家族の光景を思い出してしまい、今は何も食べる気はしない。
外からは、小さな呻き声と川原をあてもなく歩く音だけが響いている。
テントが風に揺れる。
この場から逃れられたとして、他の地域はどんな状況なのだろう?
モバイル電源で充電していたスマホを枕元から拾い上げる。
検索エンジンを起動して『ライブカメラ 東京』と入力する。
適当なリンクをクリックすると、街中の風景が現れた。
雨が降っている。
誰も歩いていない。
けれど、道には食い荒らされた人が一人、赤い水溜りの中で転がっている。
前のページに戻って他のリンクをクリックする。
そこは商業ビルが立ち並ぶ繁華街だった。
ふらふらと歩く男女が彷徨う様に歩き回っている。
画面をクローズアップする。
その人影のいくつかは血で染まり、腹からはみ出た暗い色の何かを引きずっている者もいる。
俺は頭を抱えた。
とにかく雨に打たれてはいけない様だ。
安全な場所はあるのだろうかと思い、俺は再びラジオをつける。
『感染の状況と現在分かっている事をお知らせします。現在、雨が降っているのは関東、甲信越地方の一部です。それ以外の地域の方は、自分の住んでいる地域から出ないでください。現在雨が降っている地域の方は自宅から出ない様にお願いします。』
『新しいニュースが入りました。ウイルスは体内に入ると特に脳に移動して炎症を誘発し、認知力の低下や凶暴性を引き起こすとの事です。感染者は音や人の姿に反応して暴力を振るいますので、とにかく家からは出ないでお過ごしください』
当たり前だが、雨が降っていないところは安全な様だ。
けれども、関東甲信越が安全でないなら、実質ここからの逃げ場はない。
スマホから、着信音が鳴った。
いけない、やつらは音に寄ってくる。
俺は急いで電話をとる。
「ユウちゃん? 私。キャンプに行くっていってたけど、ニュース見た? 大丈夫?」
会社の、仲良くしている女性の声。
一昨日休暇の理由を聞かれてキャンプに来る事を話した事を思い出す。
『いつものバイクで? 事故に気をつけてね』の言葉と人懐っこい笑顔を思い出す。
「とりあえず俺は大丈夫。それより外に感染者がいるんだ。声をあまり出せないから」
言いながら相手の事が心配になる。いつも仕事の手助けをしてくれている子だ。
「そっちは? 今日は出勤してるの?」
「んーん。朝電話が来て、今日は出勤しなくていいって」
「そうか、よかった。切るぞ」
極力俺は小声で話したつもりだった。
けれど、こちらに近づいて来る二つの足音が聞こえてきた。
ザ、ザ、ザ。
近づいてきた足音は、俺のテントの前で止まる。
左右を見回している影がテント越しに見える。
俺を、いや声の主を探しているのだろう。
テントの中に人がいることすらも分からなくなっているのか、と思う。
とにかく、この中にいれば。
テントに濃い手形が押し付けられた。
そして、布を擦る鈍い音をたてながら何かを探っている。
一人の感染者が俺のテントに手をのばしている。
思わず声を上げそうになる。けれども、ここは堪えないといけない。
耐えるために、俺は歯をくいしばる。
右から砂利の音がした。
反射的に音の方に顔を向ける。
もう一人の感染者が顔を俺のテントに押し付けている。
なにか、訳のわからない声を発しながら。
汗ばんだ手に握る料理用ナイフを見る。
これで刺せば逃げられるのだろうか。
激しい動悸を感じる。
いや、人を刺せるのか? 俺は。
刺したとして、もう一人から逃げ切れるのか。
……混乱して答えを出せない俺は、テントの中央で小さく体をまるめた。
鳥の声が聞こえた。
テントの屋根から雨音が止まっていることに気がついた。
二人の感染者は、俺のテントから興味を失った様に、鳥の声に向かって足音を立てていった。
助かった。
木々の枝が、不意に訪れた突風にそよぐ。
その風は、俺のテントを直撃する。
テントは、音をたてて崩れた。
二人の感染者が両側から揺さぶったせいでペグが抜けかけたのだろうか。
外から見たテントは、もう俺の上に布をかけた状態になっているはずだ。
体の形をそのままうつしている。
気づかれたら襲われる。
俺は震える手でテントのジッパーを探した。
慌てながら探ると、テントの中に固い手触りをかんじる。
見つけた。
ジッパーを開けるとバイクに目を向けた。
バイクは無事だ。鍵はポケットにある。
ザ、ザ、ザ。
走って来る二つの足音が聞こえる。
ドク、ドク。
自分の心臓の音が激しい。
バイクまでの距離は。
バイクにたどり着いたとして襲われずに起動できるのか。
近くにあるのは、崩れたテント、調理用ナイフ、クーラーボックス。
視線が定まらず、考えがまとまらない。
足元に目を向ける。
ラジオ。
ラジオを拾う。
ラジオからイヤホンを抜く。
『雨に含まれたウイルスは、某国の作成した細菌兵器が漏れてしまったものと……』
アナウンサーの声だ。
俺はできるだけ遠くにラジオを投げる。
足音はラジオに向かった。
俺は、体が損壊して血だらけの、ボロボロの男たちが遠ざかって行くのを見送る。
ヘルメットを手に、バイクにまたがり、キーを回した。
赤いワンピースの少女が、両手を前に突き出し、充血した目で口を大きく開けて俺に走り寄って来る。
俺は、その少女にヘルメットを投げつけると、アクセルを吹かした。
新緑が、やっと現れた太陽に照らされて虹色に輝いている。
俺は、左右に続く白いガードレールに沿うように、誰もいない山道を走っている。
雨に濡れたシートが少し冷たい。
初夏の爽やかな風が頬の上を通り過ぎる。
何事もなかった様な安堵感。
俺の乗ったバイクは、山道を右に、左に傾きながら、ひらひらとアスファルトを駆け抜ける。
俺を心配して電話をしてくれた同僚は大丈夫だっただろうか。
帰って、もし無事だったら告白をしてみようかとも思った。
彼女の白いブラウスを思い浮かべる。
いつもつけている香水も。
シートに溜まっていた雨がズボンに染み込んできた。
冷たい。いや、痛い。
不意の風が道路の上の木陰を揺らす。
水滴が落ちてきて、俺の額を濡らした。
濡れてしまった額から、俺は頭の中に向かって耐え難い痛みを感じた。
……遠くから、爽やかな鳥の鳴き声が聞こえてきた。