異世界から来た女の最期
歪んだ空間が正常に戻ると、エミリは赤々と光が漏れる扉の前に座り込んでいた。
少し離れた場所から、怪物と化した王の雄叫びが、今もなお響いてくる。
——エネルはあの後、どうなったのだろうか。
今すぐにでも駆けつけたい衝動を、エミリはぎゅっと目を閉じて押さえ込んだ。
エネルが、なけなしの力を振り絞ってここまで送ってくれたのだ。
それを無駄にするわけにはいかない。
エミリには、エミリのやるべきことがある。
ふらつく身体を叱咤しながら立ち上がり、足を引きずるようにして扉に手をかけた。
豪奢な扉の向こう。
部屋の中央には、台座に据えられた巨大な大魔石が鎮座していた。
赤黒く鈍い光を放ち、そこから溢れ出す霧は床を這い、その明滅は、まるで生き物の心臓の鼓動のようだ。
「……どうすればいいの」
この大魔石を止めなければならない。
だが、エミリには方法がわからなかった。
壊せない。
封じられない。
そもそも、彼女には魔力がない。
王はきっと、大魔石に何らかの魔道具を用い、魔素を自らの体に取り込もうとしたのだろう。
魔族のような力を得るために。
だが、人間の身体では、その力に耐えきれなかった。
結果、制御されるはずの魔素は行き場を失い、あり得ない形で溢れ出した。
エネルは言っていた。
魔素は、魔獣から魔族へと、正しい循環の中でなければ、魔力として成立しないのだと。
それを人間が無理やりねじ曲げた結果、この歪みが生まれたのだろう。
大魔石の前で、エミリは立ち尽くしていた。
赤黒い霧が足元を這い上がり、
息を吸うたび、肺の内側が重くなるような感覚があった。
思わず、膝に力が入らなくなり、その場に崩れ落ちる。床に手をついた瞬間、指先がわずかに震えていることに気づいた。
「ゾンビになるのは嫌よ……私に、何ができるっていうの」
その時だった。
大魔石の脈動が、一瞬だけ止まった。
次の瞬間、世界から音が消えた。
王の雄叫びも、霧のざわめきも、すべてが遠ざかる。
そして金色の光の粒がきらきらとエミリの周りにふりそそぐ。
——聞け。
声は、音ではなかった。
頭にそのまま語りかける。
——器を誤った。
短い言葉が、重く胸に沈む。
エミリの喉が、ひくりと鳴った。
「……じゃあ、どうすれば」
——出口を、道を通せ。
大魔石の鼓動が、わずかに早まる。
——汝はこの世界のものではない。
ゆえに、歪まぬ。
エミリの視線が、自分の手に落ちる。
——汝は魔素を操れぬ。
ゆえに、拒まぬ。
——触れよ。
指先は先ほどよりも震えがひどくなっている。
「……私が?」
エミリは、ふらつきながらも一歩踏み出す。
声は消えた。
だが、導かれる感覚だけが、確かにそこにあった。
エミリは、大魔石へと手を伸ばす。
触れた瞬間、エミリの体の中を何かがものすごい勢いで流れていく。
「……っ」
膝が折れそうになる。
だが、何かが支えた。
——拒むな。
あの声だ。
——受け取るな。
流れよ。
大魔石から溢れていた魔素が、エミリの体へと流れ込む。
だがそれは、身体の内側に溜まる感覚ではなかった。
胸を通り、
背中を抜け、
床へと落ちていく。
まるで、ただの通路だ。
魔素は霧となり、赤黒さを失っていく。
黒は薄れ、赤は和らぎ、やがて淡い光へと変わった。
エミリの体から、力が抜けていく。
不思議と痛みはなく、次々と流れ込んでは出ていく感覚をまるで自分の体ではないように感じた。
「……ちょっとは役にたてたかな……」
力を持つでもなく、剣を振るうでもなく、
魔法を操ることもできなかった。
けれど。
世界は、そんなお決まりの力で救われるとは限らないかもしれない。
大魔石の台座に触れていたエミリの指先が、光の粒子へとほどけ始める。
肉体が崩れるのではない。
溶けて、混ざっていく。
赤黒かった霧の名残が、淡い光となって城を満たす。
それは、城だけでなく、
森へ。
川へ。
大地へ。
答えはもう、言葉では返らない。
代わりに、世界そのものが応えた。
魔族の村で、魔素の流れが戻る。
遠くで、魔獣の卵が孵る。
人はそれを、奇跡と呼ぶだろう。
エミリの姿は、もうどこにもない。
だが、
王都に吹く風の中に。
魔王城の中庭を渡る光の粒に。
確かにいる。




