王都の異変
「ちょっと下に降りて、何が起こっているのか確認しましょう」
エミリの言葉を合図に、エネルは手綱を軽く引く。
ドラーグが金色の羽をゆっくりとはためかせ、ゆるやかに高度を下げて森の奥へと舞い降りた。
木々の間に身を隠すように着地すると、二人はその巨体を残し、人々の列へと足を向けた。
近づいてみると、行列の人々は皆、泥にまみれ疲労と不安をその顔に刻んでいた。
手を引く親子、荷を背負った老人、泣きじゃくる子ども。
誰もが焦りを隠せず、エミリの呼びかけにも足を止めようとしない。
その中で、木陰に腰を下ろし、ひとり息を整えている老人が目に入った。
エミリは静かに近づき、しゃがみこんで声をかける。
「何があったのですか? たくさんの方が避難されていますが……」
老人はゆっくりと顔を上げ、虚ろな目でエミリを見た。
唇が乾き、声はかすれている。
「……わしらは、王都から逃げてきた者だ」
「王都から?」
驚いたエミリの声に、老人はうなずいた。
王都まではまだ距離がある。それを徒歩で来たというなら、すでに数日は経過しているはずだ。
「……王城が、急に赤黒い霧に包まれたのだ。誰も理由がわからん……魔族が攻め入ったという噂が広まってな。城下は混乱して、皆……逃げ出したのだ」
エミリはすぐにエネルの方を見る。
エネルは眉をひそめ、肩をすくめてみせた。
「俺たちじゃないな」
「……ええ、わかってます」
だが、それが逆に不安を募らせた。
魔族の仕業でないなら、赤黒い霧はもしかすると—
エミリの背中を、冷たい汗がつうっと流れ落ちる。
もしそれが、王自身がなにか魔術を使っているのだとしたら、王都で何か取り返しのつかないことが起きている。
「魔族領に兵を差し向けてきたばかりだし、一体何が……」
自分でも信じられないように呟く。
王都を守るはずの王が、なぜ赤黒い霧を発生させるのか。
エネルは腕を組み、低くうなる。
「……もし人間の王が大魔石を使ってなにか魔術を発動させているなら相当まずいな。それに人間どもは、俺たちの仕業だと信じきっているだろう」
「まさか……自分たちの王がそんなことをするなんて、誰も思わないものね」
避難していく人々の列は、どこまでも続いていた。その光景を見つめながら、エミリは唇をかみしめる。
「……先に進みましょう。王都で何が起こっているのか、確かめないと」
エネルは頷き、静かにドラーグの方へ視線を向けた。
******
数刻ののち、王都にたどり着いたエミリは、目の前に広がる光景に思わず息をのんだ。
――思っていたのと、まるで違う。
王都と聞いてエミリが思い描いていたのは、きらびやかな城と活気ある街並み。
行き交う人々の笑い声、市場の呼び込み、香ばしい屋台の匂い――そんな賑やかで人の温もりに満ちた場所を想像していた。
異世界に来てからというもの、魔族の小さな村から始まり、魔王城とナフレアの往復ばかりだった。
だからこそ、人間亮の王都に来ることを少しばかり楽しみにしていたのだ。
だが、実際に目にした王都はあまりに静かで、まるで廃墟のようだった。
王城は赤黒い霧に覆われ、まるで巨大な瘴気の塊のように不気味な雰囲気を醸し出している。
街路に人影はほとんどなく、開いている店も見当たらない。
残っているわずかな住民たちは不安げに荷をまとめ、どこかへ逃げ出そうとしていた。
「……これが、王都……?」
隣で霧を見つめていたエネルが、腕を組みながら低く呟く。
「……あの霧、魔素だな。けど魔族の仕業じゃない。人間の王が何かをやらかしたんだろう」
エミリはその言葉を聞きながら、霧に覆われた王城を見上げた。
どこか現実離れした光景に、背筋がぞくりとする。
「これじゃまるで、小説に出てくる魔王城そのものじゃない……」
皮肉にも、この世界に実在する魔王城は鬱蒼とした森の奥にありながら、木漏れ日が差し込む穏やかな場所だった。
どちらかといえば、御伽話に出てくるお姫様が暮らす城のような――光と静けさに満ちた場所。
その一方で、今目の前にある人間の王の城は、まるで闇そのものに飲み込まれたように沈黙している。
恐れられるべき魔王の姿が、皮肉にも人間側に現れていた。




