未来への希望
ディランの言葉が落ちると、室内の空気が重く沈んだ。
国王アルマス—この国で最も魔術に精通した男。そして、魔石の研究を国家事業にまで押し上げた張本人。
エルヴィンが眉をひそめる。
「王都の中央塔には、父上が使わず保管している大魔石がある。あれを使えば、どんな魔術でも発動できると言われているが……」
「それを使われたら、ますます魔素の流れが壊れますね」
エミリの声が静かに響く。
舌打ちをしながらエネルが低く言い放つ。
「この先もっと魔獣が目覚めなくなる可能性もあるな」
沈黙が落ちた。
窓の外では、朝の眩しい光が顔を出し、執務室の床に長い影を落としている。夜を越えた安堵ではなく、むしろ新しい不安の光だった。
エミリは静かに息を吸い、言葉を選ぶように呟いた。
「やはり、王と話をする必要がありますね。争いを止めるだけでは足りません。根本から変えなければ。魔獣の問題もある……時間がありません」
その言葉に、ディランが目を細めた。
彼は顎に手を添え、しばらく思索するように黙り込む。
そして、ぽつりと呟いた。
「……魔獣のことなんだが、もしかすると、なんとかできるかもしれない」
「え?」
エミリが顔を上げる。
「魔石は魔素の結晶だ。使い方を変えれば、元の流れに戻せるかもしれない」
そう言いながら、ディランは立ち上がった。
部屋を出てすぐ戻ってくると、その手には古びた一冊の本が握られていた。革表紙は擦り切れ、ページの端は焼かれたように黒ずんでいる。
「……少し時間をくれ」
本を机に置き、慎重にページを繰りながら言う。
「我々人間は、魔石に含まれる魔素を消費して魔術を使ってきた。陣や呪文の構成を少し変えれば魔素を自然に返すこともできるはずだ」
その声は確信に満ち、興奮を隠しきれなかった。かつて魔族は敵と呼んだその瞳に、今はただ純粋な探究心だけが燃えている。
魔術を愛する青年の、それだけの瞳だった。
「……つまり、魔石を通して魔獣に魔素を渡す、ということですか?」
エミリの問いに、ディランは小さく頷いた。
「そうだ。もしそれが成功すれば魔獣たちは再び、目を覚ますだろう」
その言葉に、エミリの心臓が跳ねた。
希望が、ゆっくりと形を取りはじめている。
「ここで試したいですね……」
エミリが眉を寄せる。
「移転魔法を使えば良いだろう。魔王城の卵をこっちに転送してもらおう。魔王ならできるはずだ」
「転送……! 魔族の移転魔法か。なるほど」
ディランが目を見開く。
すぐに机の上の紙を掴み、ペンを走らせた。
「大人数は運べませんけどねー」
エミリはぼやくように言いながら、わざとらしくため息をついた。
移転魔法にはずっと憧れているのに、エネルに頼むたびに「無理だ」の一言で断られ、結局いつも徒歩移動である。
「じゃあ、私は早速今から魔素を循環させる陣を組み立てる!」
ディランは生き生きと目を輝かせて、古びた本のページを捲り出した。
エネルは通信用の魔晶石を取り出し、魔王城の方角へ向けて軽く魔力を流す。青白い光がふっと灯り、魔王城執務室勤務の魔族の声が響く。
『エネル様?どうされたのです?』
「魔王に頼んで、魔獣の卵と小型の冬眠から醒めてない魔獣をこちらに送ってくれるか?座標は——」
『卵と魔獣を?わかりました。転送には数分ほどかかります』
「頼んだぞ」
エネルの声に、光が静かに脈動する。
やがて、部屋の中央に光が浮かび上がり、淡い光の柱が立ち上がった。空気が揺れ、そこに淡く透ける卵と魔獣の影が浮かぶ。
「来るぞ……」
エネルが声を低くした。
数秒後、光が収束し――
温かな輝きを帯びた魔獣の卵と床に寝そべる小さな魔獣が、床の上に現れた。
エミリがそっと両手を添えると、ほんのりと熱を感じる。まるで、その中で息づく命が反応しているかのようだった。
「ディランさん、いけますか?」
ディランは古びた本を片手に、机の上に描いた陣を指先でなぞる。魔石を中央に置くと、彼は静かに呪文を唱えはじめた。
「ポテンティア・リーベラ・テ……」
淡い光が陣を走る。
魔石の中に眠る魔素が、糸のように流れだし、魔獣と卵へと伸びていく。
部屋の空気が張り詰め、誰もが息を飲んだ。
やがて――
「……あれ?」
魔法陣の光が弱まり、空気が微かに震えた。
ディランの詠唱が途切れ、ただ淡い光だけが部屋の中に残る。
「……どうだ……?」
エネルが小さく呟いたが、返事はない。
卵も、眠る魔獣も、動かない。
魔石の光がゆっくりと沈みかける。
失敗か――そう思ったその時。
「……今、動いた?」
エミリの声が震える。
机の上に置かれた魔獣の卵が、
ほんのわずかにコトン、と音を立てて揺れた。
続けて、かすかに「コン、コン」と内側から叩くような音。それは、眠りの奥から微かな鼓動が届くようだった。
同時に、隣で横たわっていた小さな魔獣の毛並みがふるりと震えた。目はまだ閉じたまま。けれど、その耳が確かに、ひとつ上下した。
「……動いた!」
エミリの声がかすれる。
魔石の光が再び脈動し、
空気の中に、かすかな温もりが流れ込む。
冷たかった部屋の温度が、じわりと上がっていくのが分かった。
ディランは震える手で魔石を見つめ、
小さく、呟いた。
「……やった……成功だ」
誰も声を上げなかった。
ただ、光と鼓動の音だけが、静かにその場を満たしていた。
「やっと……ひとつ、道が見えたんですね」
エミリの言葉に、誰もが小さく頷いた。
テーブルの上の小さな魔獣が、まだ眠ったままかすかに身じろぎをする。
その動きは、確かに生を取り戻した証だった。
エミリはそっと手を伸ばし、指先でその温もりを確かめる。心の奥に、ほんのりと灯る希望が広がっていく。
――けれど。
同時に、胸の奥に重い現実が沈む。
この命を守るためには、いずれ人間の王——アルマスと向き合わなければならない。
言葉で通じる相手ではないかもしれない……それでも、逃げるわけにはいかなかった。
「……次は、王都ね」
エミリは小さく息を吐き、まっすぐ前を見据える。
窓の外では、朝日が完全に昇りきっていた。
黄金の光が部屋を満たし、エミリの瞳に決意の色を映す。
希望は、確かに生まれた。
それを未来へ繋ぐために、彼女は戦う覚悟を決めたのであった。




