奪い返せ、命の欠片
まだ夜も明けきらぬ薄闇の中――
森を抜け、ナフレア町の外れに差しかかると、空気がぴんと張り詰めた。
騎士たちが門前に陣を敷き、領主館を取り囲んでいる。
前回の包囲とは比べものにならない数だった。
鎧と剣が冷たい光を返し、まるで獣の群れが獲物を囲むように、静かに息を潜めている。
それでも彼らは、魔王ゼアが張った結界に手を出せずにいた。
騎士たちの手には、淡く脈打つ光――魔石を埋め込んだ魔道具。
エミリはその光を見つめ、唇を噛んだ。
エネルが魔石を停止できるのは、せいぜい一メートルの範囲。
ひとりでも捕まれば、即座に包囲されて終わりだ。
いくらエネルとピリカの魔法が優れていても、この人数を相手にすべての魔石を奪うのは不可能に近い。
(どうして……もっと魔族を連れてこなかったんだろう。
あの時、他の魔族にも頼んでおけばよかった……みんな、魔王城であんなに暇そうにしてたのに)
遅すぎる後悔が、胸の奥で痛んだ。
「……数が多いですね」
ピリカが息をひそめる。
「全員の装備に魔石が使われてる。これは骨が折れるな……」
エネルが片手を上げ、指を鳴らした。
淡い光が広がり、エミリとピリカを包み込む――結界魔法。
ピリカは静かに両手を組み、詠唱を紡ぐ。
「――“沈黙の幕”。」
薄光が波紋のように広がり、草の葉が風もないのに揺れた。
そして、音が――消えた。
木々のざわめきも、虫の声も、足音さえも。
まるで世界そのものが息を止めたようだった。
「これで、声も足音も届きません。……姿を消せたら完璧なんですけど」
ピリカが小さく笑う。
魔法を使えないエミリにとって、その姿はまるで舞うように見えた。
自分自身にチートも俺TUEEもない異世界で、ただ隣に本物の魔法使いたちがいることが心強かった。
「いいえ。これだけでも十分よ」
エミリは息を整え、髪を払う。
闇が彼女たちを包み込む。
視線だけで、三人は頷いた。
合図はいらない。
沈黙の中、三人は門の影へと滑り込んだ。
草を踏む感触だけが、現実を繋ぎ止めている。
松明が揺れ、騎士たちは警戒の陣形を保ったままだ。
「まずは外側の部隊から……エネルは静かに魔石を無効化して。
ピリカさんは魔石を外して、私が拾います」
エミリの囁きに、二人がうなずく。
エネルの指先から光が漏れ、近くの騎士の魔道具にひびが走る。
灯りがふっと消えたが、騎士は異変に気づかない。
ピリカが指を動かすと、魔道具に埋め込まれた魔石がかすかに震え、
やがて重力に負けるようにすとんと落ちた。
音も立てず、淡い光だけが草の上に転がる。
ピリカが息を吐きかけた、そのとき――
夜風が彼女のマントを揺らした。
光の瞬きが、偶然、ひとりの若い騎士の兜に反射した。
「……誰だ!」
次の瞬間、剣が抜かれる。
沈黙が砕けた。
結界が破れ、世界に音が戻る。
怒号と金属音が夜を切り裂いた。
「敵襲だッ!!」
松明が一斉に燃え上がり、炎が空を裂く。
無数の剣が光を放ち、波のように押し寄せた。
「ごめんなさーい!」
ピリカの声にかぶせるように、エネルが叫ぶ。
「エミリ、伏せろ!」
地面を這うように光が走り、魔力の蔦が騎士たちの足を絡め取った。
だが、多すぎる。
鎧がぶつかり、火花が夜空に散る。
「抑えきれない!」
エネルの額に汗が滲む。
「エネル! 後方の騎士から! ピリカさん、荒っぽくてもいいから魔石を外して!」
「了解!」
ピリカの詠唱が轟き、光の矢が夜を切り裂く。
命中するたびに魔道具が悲鳴を上げて砕け、光の粒が宙に舞った。
だが、その光がまた彼らの位置を暴く。
「くっ……きりがない!」
ピリカが叫ぶ。
その刹那、ひとりの騎士がエミリへ突進した。
月光が刃を照らす。
「エミリ!」
エネルの叫びと同時に、風が爆ぜた。
目に見えぬ衝撃波が地を叩き、火花が散る。
結界が軋み、金属音が耳を裂くように響いた。
騎士の身体が弾かれたように吹き飛び、地を転がる。
だが同時に――エミリを守っていた結界の膜が、ぱんと音を立てて砕け散った。
静寂を裂くように、怒号が響く。
「魔族だ! 全員、構えろ!!」
瞬間、戦場が燃え上がった。
松明の炎が空を染め、剣がぶつかり合う音が轟く。
エミリは荒い息を吐きながら、光る魔石を見つめた。
(このままじゃ押し切られる……でも、ここで退いたら……)
頭の奥に、魔素の循環が蘇る。
命が還る輪。それを断ち切ったのは人間の魔術。
――今、取り戻さなければ。
歯を食いしばり、駆け出そうとしたその時。
「……やめろ!!」
夜明け前の冷気を切り裂くような怒声が、戦場全体に響いた。
すべての音が凍りつく。
結界の内側――領主館の大扉が、軋みながら開いた。
淡い光の中に立つのは、黒いローブの男。
フードの奥から、静かな眼差しが彼らを射抜く。
魔術師、ディラン。
その隣に立つのは、焦った表情の第二王子エルヴィン。
そして、蒼白な顔の領主デラルド。
「……魔術師?」
エミリが呟く。
「ディラン様!? ご無事で……!」
前列の騎士が声を上げた。
歓喜と困惑が混じり合うが、誰も剣を下ろさない。
ディランは焔に照らされながら、一歩前に出た。
「――やめろ。」
低く響くその声が、冷気を震わせる。
「武器を下ろせ。」
その声音は怒りでも恐れでもない。
確信と、深い悔恨を帯びていた。
誰かがごくりと唾を呑む音が響く。
「この戦いに、意味はない。
私たちは“魔族”を恐れ、魔石を奪い、支配しようとした。
だが、それで何を得た? 何を守れた?」
炎に照らされる横顔は、悲しみに染まっていた。
「恐怖に怯えるあまり、私たちは“魔”を外に探した。
だが本当の魔は、私たちの中にあったんだ。」
沈黙。
風さえ息を潜める。
やがて、一人の若い騎士が剣を下ろした。
刃が地面に落ち、からん、と音を立てる。
その音が、合図となった。
次々と剣が下ろされ、鎧の列が崩れていく。
魔石の光がひとつ、またひとつ、消えていった。
エミリはその光景を見つめ、思考が止まった。
最後に会った時、ディランは人間側の正義を疑わなかった。
それが今、恐怖ではなく理性で人々を止めている。
まるで、別人のようだった。
理解が追いつかず、胸の奥で何かが軋む。
信じたいのに信じきれない。
言葉が出ない――いや、出そうとしても喉が動かなかった。
ただ、口を開けたまま、息をすることすら忘れていた。
その横で、エネルが一歩前に出る。
腰の剣を地面に突き立て、低く告げる。
「――人間ども。
魔道具に付いてる魔石を出せ。
一つ残らず、だ。……争う気がないなら、命までは取らん。」
騎士たちの間に、重い沈黙が落ちた。
燃えさしの松明がぱちりと音を立てる。
夜明け前の空がわずかに白み始め、戦場に静寂が戻っていく。




