届かぬ想いの記録
翌朝、エミリは腰に小さなメモ帳を提げ、支度を整えていた。
「仲裁するって言っても、どちらのこともよく知らないままじゃ無責任です。まずはゼル族のみなさんの暮らしや考え方を、この目で見てみたいんです」
そう言うと、エネルは少し目を細めて頷いた。
「……そうだな、悪くない考えだ」
エネルが族長に事情を説明し、しぶしぶながらも許可が下り、
こうしてエミリは、ゼル族の村に足を踏み入れることになった。
初めて目にするその集落は、森と一体化したように静かで、木々の間に家々が築かれ、どこも自然を壊さないよう工夫されていた。川の水を引いた小さな水路が村のあちこちを流れ、畑も森の合間に控えめに広がっている。
「……すごい。自然に寄り添うって、こういうことなんですね」
思わず漏らしたエミリの言葉に、案内していた若者が誇らしげにうなずいた。
「俺たちは神の秩序を乱さぬよう、必要以上に森を削らない。家も畑も、木々の隙間を借りているだけだ」
エミリは歩きながらメモを取る。村の人々はよそ者にまだ警戒している様子だったが、エネルの顔があるおかげで、直接的に拒まれることはなかった。
やがて、彼らは村の奥にある共同の倉庫のような建物に通された。そこには代々受け継がれてきた古文書や記録が保管されているという。
最初は断られそうになったが、エネルの一言で態度が軟化し、数冊を見せてもらえることになった。
埃をかぶった巻物を手に取り、慎重に開いたエミリは、ある一節に目を留める。
――“アランの子と共に歌い踊った。彼は隣で笑っていた。許されぬことと知りながら、それでも心は止められなかった。”
「……これって……」
エミリは小さく息をのむ。
ゼル族の者が、かつてアラン族と交流し、友として、あるいは恋人として心を通わせていた記録――。
エミリは心臓がどきどきするのを感じながら、そっと巻物を閉じた。
「……ゼル族の中にも、アラン族と心を通わせていた人がいたんですね」
案内役の若者は気まずそうに視線をそらした。
「そんなものは……昔の愚か者の記録だ。俺たちにとっては恥でしかない」
エネルは横で腕を組み、静かに言った。
「好意を抱くのは神の理に反することじゃない。むしろ自然の流れのひとつだ」
若者は言い返せず、口を閉じる。
エミリは胸に残った重さを抱えながら、次はアラン族の村を訪れることになった。
***
アラン族の村は、ゼル族とは対照的だった。森の木々を切り開き、石で築かれた頑丈な建物が並び、中央には見張り台がそびえている。村全体から「守るための力」を重んじる気風が伝わってきた。
「……昔は同じ神を信仰していたのが、解釈の違いでやがて別の神として後世に伝わる……神って、結局は信じる人次第で形を変えるものなんですね」
エミリの言葉に、エネルは軽く頷きながら答えた。
「そうだな。信じる者の数だけ神の姿は変わる。だからこそ、どちらも自分たちの神が正しいと信じて譲れなかったんだ」
彼らもまた、記録を保管する場所を持っていた。族長の計らいで一部を閲覧できることになり、エミリはそこで驚くべきものを見つける。
――“ゼルの娘の笑顔が忘れられない。”
「……!」
エミリは手を口にあて、目を見開いた。
ゼル族の文書に残っていた“彼”と、アラン族の文書に記された“彼女”。
――時代も内容も一致している。
「エネルさん……これ、同じ二人のことを記録してますよね」
震える声でそう言うエミリに、エネルはうなずいた。
「……ああ。つまり、分かれた部族の間にあっても、互いを理解しようとした者たちが確かに存在したということだ……俺の両親のようにな」
胸が熱くなるのを感じながら、エミリは深く息をついた。
その後、アラン族の村を出たエミリは、聖地の奥――魔獣の巣の周辺を歩きながら、メモ帳に両部族の情報をまとめていた。ふと、岩の隙間に古ぼけた紙片が土に半分埋もれているのに目が留まる。
「ん……これは……?」
拾い上げて広げると、走り書きの小さな願い事が、ひっそりと紙面に並んでいた。
――「ゼル族のあの子と、森の奥でこっそり話したい」
――「アラン族のあの子と、また一緒に踊れますように」
どれも、表向きには許されぬ思いが率直に書かれている。エミリは息をのんだ。
「……なるほど。族長やしきたりに縛られても、みんな本当は仲良くしたいんですね」
紙を握りしめ、エミリは小さく頷いた。
「これなら、過去の想いを両部族に示せば、少しずつ理解を促せるかもしれない……」




