調査と二つの部族
渓谷の奥──聖地と呼ばれた場所に足を踏み入れると、空気が一変した。
赤土の岩肌に囲まれた空間の中央、
そこには孵化していない魔獣の卵がいくつも、まるで捨て置かれたかのように静かに並んでいた。
その横では、数頭の魔獣が岩の上に身を横たえ、まるで眠りから覚める気配すらない。
「……ここもか。この時期に目覚めていないとなると、やっぱり魔素に異常があるな」
エネルが警戒を滲ませながら呟く。
「じゃあ、さっそく計測始めちゃいましょう!」
エミリは鞄を開け、トリスタンから預かった魔素計測器を取り出そうと身をかがめた──その瞬間。
ピシッ──空気が裂ける音とともに、エネルが即座に手をかざし、エミリを包むように結界を展開した。
ヒュン──!
直後、岩陰や高所から放たれた光の矢が、次々と空を裂いて降り注いでくる。
「うわっ! 何ですか!?」
「結界内だから当たらない。心配するな。それより、さっさと測れ」
「いや、測れってー!矢が飛んできてるんですけど!?」
「よくあることだ。動け、エミリ」
「こんなこと、よくあったら困ります……!!」
文句を言いながらも、エミリは魔素計測器のスイッチを入れ、卵の近くへとそっと歩を進めた。
すると、岩場の上部から複数の影が現れる。
赤い装束をまとい、額に角を持つ魔族たちが、敵意をあらわにエミリたちを見下ろしていた。
「何をしている!! ここは我らゼル族の聖域だ! 部外者は立ち去れ!!」
「人間か!? ……穢らわしいッ!」
憤怒に燃える目が、まっすぐエミリを射抜く。
その瞬間、矢を構えた一人が飛び降り、エミリに詰め寄ろうとする──
だが、その前に、
エネルが静かに一歩踏み出し、冷えた声で言い放った。
「──ゼル族の戦士たちよ。我らは魔王ゼアの命を受け、この地の魔素調査にあたっている。無用な攻撃は、“反逆”と見なされても文句は言えまい」
空気が一瞬、凍りつく。
魔族たちの表情が変わる。矢を構えていた手がわずかに揺れる。
「魔王様の……命?」
「そうだ。そしてこの人間は、魔王城から任命を受けた者だ」
エネルの言葉に、ざわめきが走る。
その中で、やや年かさの戦士が一歩前に出た。
「……聖地に踏み込む者を簡単には受け入れられん。」
「ならば、俺が直接族長と話す。伝えてくれ。エネルが来たと」
その名に、空気が再び変わった。
魔族たちは一様に驚いた表情を浮かべ、互いに目を見交わす。
「……あのエネル……?」
「……なら、話は変わる。しばし待て。上に伝える」
男たちは警戒を解かないまま引き返し、岩場の奥へと姿を消していった。
矢の音が止み、谷に静寂が戻る。
エミリは大きく息をつき、計測器を見ながらぼそっと呟いた。
「もう……この仕事、危険手当もらえないと割に合いませんってば……」
「そのうち出世すれば、権限で予算つけられるぞ」
「それ、今すぐじゃないやつですね!?」
魔族たちが去り、しばしの静寂が戻った谷に、新たな足音が響く。
「……ゼルの野郎どもが騒いでると思ったら… エネル、お前か」
赤褐色の岩場の陰から現れたのは、アラン族の戦士たちだった。
先頭に立つのは、漆黒の短髪に金の刺繍が入った外套を羽織った壮年の魔族——アラン族の族長・グラズ。
「……グラズか。お前が出てくるとはな。暇なのか?」
エネルが肩をすくめて言うと、グラズは表情ひとつ変えずに答える。
「この騒ぎを見て見ぬふりができるか。だが……」
グラズが視線を向けた先では、先ほどのゼル族の戦士たちが、こちらも族長を連れて戻ってきていた。
「魔王様もようやく調査に乗り出したか。頭の弱いゼルがまた言いがかりをつけてきて、うんざりしていたところだった」
「……おいおい、その挑発的な言い方、どうにかならんのか?アランの犬ども」
ゼル族の族長・プーラが鋭く言葉を投げつけると、アラン族側の戦士たちが一斉に手を武器にかける。
「この聖地は、裏切り者どもが勝手に神託をねじ曲げたせいで魔獣たちがこうなったのだ!」
「寝言も大概にしろ!神託を歪めたのはそっちだろうが!」
いよいよ剣が抜かれかけたその時——
「ちょ、ちょっとちょっとストーーップ!!」
エミリが魔素計測器を掲げながら、慌てて割って入る。
「今ここで喧嘩始めたら、聖地どころか卵も全部割れますよ!? 落ち着いて!! 感情的になることは、解決から遠ざかりますってば!」
だがその声は、怒声にかき消されそうになる。
そこでエネルが静かに手を掲げた。魔力の波動が地面を震わせ、周囲の空気が一気に緊張に染まる。
彼の気配が変わったことに気づき、両部族の戦士たちは一瞬たじろいだ。
「……この場で剣を抜いた者がいれば、それがどちらであれ“魔王への反逆”とみなす」
低く、よく通る声が渓谷に響き渡る。
「それでもいいなら、好きに暴れろ。俺が全員黙らせるだけだ」
重い沈黙が落ちる。
そのあとで、グラズがふっと鼻で笑った。
「……変わってねぇな、お前は」
「お互い様だ」
「だが、ゼル族にだけ好き勝手はさせん。我らアランも、調査には立ち会わせてもらう。よろしいか?」
「……問題ない。むしろ都合がいい」
エネルはちらりとエミリに視線を送る。
「どうする? 交渉が目的だったが、今は双方を同席させるのが一番“安全”だ。……たぶんな」
エミリはうなずき、ポーチからメモ帳を取り出した。
「はい、それでは“共同調査体制”ということでまとめさせていただきまーす。ゼル族3名、アラン族3名ずつ同行していただき、調査終了後、何か分かり次第情報を共有します。以上、異議は?」
「……ない」
「……うむ」
「それに、お話の場も設けましょうね? 何を揉めているのかわかりませんが、第三者がいたほうが話しやすいですから」
こうして、一触即発だった聖地の空気は、かろうじて均衡を保ったまま、“魔素調査”という名のもとに、新たな火種を抱えたまま進んでいくのだった。




