社畜vsエミリ
魔王の部屋を出たエミリは、重い扉が閉まる音に合わせて、深く息を吐いた。
廊下の片隅で壁にもたれていたエネルが、片眉を上げる。
「……で?」
「……あれが、魔王…」
エネルは苦笑しながら肩をすくめる。
「まあ、一番強いから魔王になっただけで、国をどうにかしろって言われても困るだろうな。それに、強い相手と戦って勝つのが楽しい…それが魔族の本能みたいなもんだし」
「だったら最初から大会なんて出なければいいじゃないですか。勝ったら魔王になるって、わかりきってるでしょうに」
エネルは笑った。
「いや、そういう先のこと考える奴なら、最初から大会なんか出ないよ。歴代の魔王は大体こんなもんだぞ?」
エミリは額を押さえた。
――タルーア村の村長が言っていた言葉がふとよみがえる。
『夢の恋人を百年近くほったらかして、気づいたら少子化してた』
――ああ、そうか。
責任感よりも、目の前の欲求や楽しさを優先する。
それがこの世界の“普通”なのかもしれない。
エミリは小さく息を吐いた。
「……私の感覚だと、仕事しない上司って一番イライラする存在なんですけど……それって、完全に私の世界の価値観でしたね…反省です」
エネルが横目でちらりと見て、少しだけ目を細めた。
「気づけただけマシだな。ここじゃ仕事より力が優先だ」
エミリは小さく首を振る。
「でも……働き方の改善、というか…最低限の仕組みは作った方がいいと思います。だって、魔族だって疲れるし、滅びたら元も子もないでしょう?」
エネルはふっと笑った。
「……お前、本当に変わってるな」
「変わってるのは、そっちの世界の方でしょう」
思わず口をとがらせてから、エミリは小さくため息をついた。
「……とにかく、現場を見て、ちゃんと話を聞かないとダメですね。私ができる限りの改善点、考えてみます」
遠い昔のことのように感じるが、エミリはこの世界に来る前、NGOの調整員として働いていた。
トップと現場の温度差、疲弊した労働環境、理不尽な仕組みの立て直し、この手のトラブルは、何度も経験済みだ。
つまり、これが彼女の“本職”だった。
エミリはエネル、アレイス、エルヴィンと共に魔王の執務室に足を踏み入れた。
もちろん、魔王は執務室にはいない。しかし、その代わりに魔王の仕事を引き受けている魔族たちが忙しく働いていた。部屋は書類の山で埋め尽くされ、どこを見てもひっきりなしに動き回る魔族たちの姿があった。
「結構書類がありますね…」
エミリが呟くと、エネルは苦笑いを浮かべながら言った。
「まあな。どんどん溜まっていく一方だ。俺たちは体力には自信があるが、こういう机仕事は得意じゃない。それに、魔王様が執務室にこないから、誰もこれを整理することもない」
部屋を見渡すと、そこにいる魔族たちは全員が疲れ果てた表情を浮かべ、無機質な雰囲気を漂わせていた。長時間働いているようで、その顔には休息を求めるサインが現れていた。
エミリはその様子を見て、一息ついた後、やや厳しめに言った。
「でも、これが続くと、誰も効率的に仕事をこなせなくなりますよ。適度な休憩と睡眠を取らなければ、逆にミスが増えて、やり直しに余計な時間がかかりますから。」
その言葉に、周囲の魔族たちは少し顔を上げ、エミリに注目した。
エネルもやや真剣な表情を浮かべながら続ける。
「まあ、確かにそうだな。働き続けるだけじゃ、どこかで壊れてしまう。」
「魔王があれですからね、誰もそれを言える立場にいなかったんだろうけど、ここを変えていかないと。」
エミリが静かに言うと、アレイスとエルヴィンも頷いた。
「現場が回るためには、まずはこの働き方自体を見直さないとダメですね…。」
エミリの決意を込めた言葉に、周囲の魔族たちは少しずつ反応を見せ始めた。
「じゃあ、まずは休憩を取らせることに重点を置きます。ついでに、仕事の優先順位も見直す方法を考えましょう!」
エミリは軽く指を鳴らしてから、エネルに視線を向けた。
「エネルさん、このお城にどこか空き部屋ってあります?」
「至る所にあるが…何をするつもりだ?」
「決まってるじゃないですか、休憩室を作って、娯楽を提供します!」
エネルは一瞬だけ目を瞬かせ、肩をすくめた。
「…まあ、お前なら言い出すと思ったよ。」
そしてエミリたちは、すぐに案内されたちょうどいい広さの空き部屋へ移動する。
エミリは両手をぱんっと叩き、振り返った。
「じゃ、エネルさん! 魔法でチャチャっと、前に村や町に設置した映像を映すやつつけてください! で、『魔族キュン共同生活シーズン1』を流します!」
すると、横からエルヴィンがすかさず口を挟む。
「いやいや、シーズン1もいいけど、エルディアが加入したシーズン2の方が神シーズンだろ? あれは外せない。」
アレイスも頷く。
「確かに。シーズン2は伝説級でしたね…でも私は、村を出てからの今の様子が気になるんですよね。だからシーズン3を確認したい気もするんですけど…」
「おいおい、落ち着け。」
エネルが苦笑混じりに制した。
「ここで働いてる連中は、まだ素人だぞ? 免疫がないのにいきなりシーズン2や3なんか見せたら、刺激が強すぎるに決まってる。まずはシーズン1からだ。」
「なるほど…確かに初見でいきなりシーズン2は重いですね。」
三人の会話を聞きながら、エミリはにやっと笑った。
「ふふふ…ここで娯楽を提供して、なんなら城内恋愛が芽生える……一石二鳥すぎて、我ながら良いアイデアで脱帽です。」
エルヴィンがすかさず突っ込む。
「でも逆に、娯楽に夢中になって仕事しなくなったらどうするんだ?」
エミリは即答した。
「この娯楽室は決まった時間しか開けませんし、映像も流しっぱなしにはしません。オンとオフはきっちり切り替えますよ。」
「…抜け目ないな。」
エネルが半ば呆れたように笑い、魔法陣を描き始めた。
エネルが魔法陣を描きながら、ちらりとエミリを見た。
「で、映像流すだけか?」
「いえいえ、それだけじゃ足りません!」
エミリは人差し指を立てて、さらに提案を続けた。
「娯楽室の隣に、仮眠室も作りましょう。短時間の仮眠は作業効率を上げるんです。科学的にも証明されてますから!」
「か、かがく?」
エルヴィンがよくわからない単語に眉をひそめる。
「…つまり、ちょっと寝た方が頭も体も回復するってことだろ。」
エネルがざっくりとまとめた。
「そうそう! 仮眠用の簡易ベッドを置いて、15分~30分くらいの短い睡眠を推奨します。がっつり寝ると逆にだるくなるので、そこは注意ですけどね。休むときは休む、働くときは働く。このメリハリが大事なんですよ。」
エネルはふっと笑った。
「…まあ、確かに今のままじゃそのうち潰れる奴が出るだろうな。仮眠室も作るか。」
娯楽室と仮眠室が整えられ、エネルが魔法で映像を流し始めた。
執務室の魔族たちの耳にも、
「休憩室ができたらしいぞ」「娯楽まであるんだと」という小さな噂話が届く。
だが、書類に向かう手は止まらない。
ただ、誰もがほんの一瞬だけ動きを緩め、
疲れ切った目が、かすかに揺れた。
それでもすぐに無機質な表情に戻り、また書類の山に向かう。
エミリはその様子を見て、眉を寄せた。
「……うーん、やっぱり、社畜は一朝一夕には止められませんね。」
エネルが肩をすくめる。
「まあ、魔王に仕えるってのはこういうことだ。根が深ぇぞ。」
エミリはそれでも諦めず、まっすぐ執務室を見渡した。
「でも、止められないなら、少しずつ変えていくしかないですから。」
疲弊した魔族たちに声をかけるタイミングを計りながら、
彼女は次の一手を思案し始めた。




