ビタミンを欲する
エミリは、紛争地、貧困国、辺境の村から国際都市まで──名の知れた国はほとんど訪れている。学生時代の留学に始まり、休暇はバックパッカーとして世界を巡り、働いてからはNGOの現地調整員として、危険地帯も含めて数えきれない土地を踏んだ。
だからこそ、心得ている。
郷に入っては郷に従え。
イタリア人の前でパスタを折って茹でてはいけないし、カルボナーラにクリームを入れてもいけない。
アルデンテの麺に、生卵の黄身と、頬肉の塩味、チーズの香り、黒胡椒の刺激──それが正解だ。郷のルールは、郷の敬意でもある。
「……あの、エミリ様? あの、お話、聞いておられますか?」
「あ、はい。すみません、意識が元来た世界へ飛んでおりましたが、ちゃんと聞いておりますよ。お食事のことでしょう?」
「あ、はい。お口に合うか分かりませんが、こちらをどうぞ」
魔族の料理は初体験だった。どんな国の料理も試してきたが、ここは未知の領域だ。
色んな国の料理を食べたけれど、魔族の料理はまさに未知の領域。
お皿に載せられているのは──肉。
さらにその隣も──肉。
あれ、また肉…これなんの肉?
肉、肉、肉のフルコース。
肉の山、肉の海、肉の嵐。
赤身、燻製、串焼き、煮込み、どう見ても肉。
肉の量に、むしろ人間の食欲が追いつかない。
だが、ありがたいことに、どの皿にも真心が込められているのがわかる。
エミリはスプーンを手に取り、小さく息を吐いた。
「さて、郷に従いますか」
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ありったけのプロテインを摂取し、明日は確実に胃もたれ――そんな未来が見える。
「なにか……レモン的な、柑橘系的な、さっぱりした……そういう何かを……体が欲している……」
エミリは食後の呪文のようにぼそぼそと唱えながら、テーブルに突っ伏していた。
そんな彼女のそばに、先ほどから料理をサーブしてくれていた、可愛らしい魔族の少女が控えていた。ややおずおずと、しかし礼儀正しく口を開く。
「しょ、食後に、お飲み物など……いかがですか?」
――飲み物。水。
それは海外で最も気をつけるべきもののひとつだ。
現地の人々は平気でも、よそ者が飲めばたちまちお腹を壊し、下手をすれば入院沙汰。国によっては笑えないことになる。
だが、エミリだ。
某スパイシー大国で一年間働き抜いた鉄の胃袋をもっている。そう簡単には負けない。
「ありがとう。じゃあ、いただこうかな。ところで……ここの水って、どのように手に入れてるんですか?」
少女は一瞬ぽかんとした顔をしたあと、にこりと笑って答えた。
「え? 水魔法、ですけど?」
……ああ、そうきたか。
エミリは小さくうなずく。異世界、そうだった。人智を超えたものが普通に存在している世界だ。
(でも……どこから?
それに含有成分や衛生処理の工程は……?)
飲む前から、エミリの頭の中では無意識に「水質調査チェックリスト」が立ち上がっていた。
謎の飲み物を飲み終えたころ、魔族の少女――ピリカが、エミリを村の近くの森へと誘ってくれた。
「お散歩、行きますか? このへん、風通しもよくて気持ちいいですよ」
ようやく体も村の空気に慣れ、足腰がまともに機能してきたエミリは、願ってもないお誘いににっこり頷いた。
森でフルーツ的な何かを見つけたらすぐ持って帰ろう、そうしよう。体がビタミンを欲している。
そう固く誓いながら、エミリはハンターの目つきになった。目指すは果物。目的は胃腸の調整。
だがその横で、ピリカはというと、ちらちらと森の奥に目をやりながら、どこか落ち着かない様子だった。
「ピリカさん? もしかして森って、ちょっとアレな感じですか?モンスター的な何かが出るとか?」
「……今日は、ちょっと変なんです。気配が……いつもと違う」
慎重に森を進んでいくと、木々の奥、洞窟の入り口付近に、何かが蹲っているのが見えた。二つ。人影のような、でもどこか異質な気配。
エミリの中で、一瞬にして「ビタミン探し」の優先順位が大幅に下がった。