違和感
……そんな若者たちの共同生活の様子を、実はもう一人、別の場所から見守っている者がいた。
森の外れ、人気のない高台にひとり、腰を下ろしている男。
その名はエネル。
彼は、深い緑に包まれた森の中に、ひっそりと息を潜めていた。
手のひらで触れる水晶スクリーンは、彼の命とも言える道具であり、いまやその映像をじっと見つめていた。
彼の表情は、いつものように冷静で無感情だ。
まるで目の前に広がる景色が、彼にとって何の感慨も与えないかのように。
だが、画面の中で誰かがわずかに目をそらすたび、手が触れそうになってあわてるたびに、その冷徹な眉がわずかに動く。
──これは……くるぞ。
水晶の中、映像は瞬時に一瞬を切り取った。
ハンナが浴場から濡れたまま飛び出してくる。
その後を慌てて追いかけるジャン。
耳まで真っ赤になり、まるで初めての恋に舞い上がっているかのようだ。
エネルの口元が、ほんの一瞬だけ、わずかに動いた。
その微細な変化に、もし誰かが気づけば、彼の表情の奥に潜む心情が見て取れたかもしれない。
「……ジャン、おまえ、やっと気づいたのか……」
隣には誰もいない。
だが、エネルはひとり静かに頷いた。
その瞳は何も語らず、無言のままで、水晶の映像をじっと記憶に刻み込む。
──そして、ふっと静かな呟きが漏れる。
「……これはもう一回、巻き戻して確認しておこう」
周囲には誰もいないのをいいことに、エネルは水晶に手をかざし、“本日のまとめ映像”を数秒巻き戻す。
濡れたハンナ、慌てるジャン、赤く染まる耳。
その一連の流れが、エネルの心の中でゆっくりと形作られていく。
満足げに、再び頷く。
「……完璧な布石だ。さて、ここから関係性がどう変わっていくか…楽しみだな」
その瞳の中には、まるで舞台の観客のような静かな期待が宿っている。
冷静沈着な顔のままで、内心はすっかり“視聴者モード”に突入している。
まるで、誰よりも真剣に推しの行方を見守る者のように。
だが、次の瞬間。
画面が突然、ひときわ不穏な音を立てた。
水晶の中で、ふっとノイズが走る。
一瞬だけ、色彩が歪み、映し出された室内が不自然なまでに“静けさ”に包まれた。
まるで時間が止まったかのような、全てが凍りついたような感じ。
その歪んだ映像が、エネルの心にすぐさま危機感を告げる。
エネルは首をかしげ、スクリーンの表面に手をかざす。
(……通信の乱れか?)
だが、その直感が告げるのは、ただの乱れではない。
すぐに、現在の共同生活の映像を確認した。
そこに映し出されるのは、眠っている若者たちの姿。
正確に言えば、“眠っているように見える”。
だが、何かが違う。
誰も寝返りを打たない。
まるで時間が止まったかのように、完全に静止している。
息遣いすら感じられない、無表情な人形たちが並んでいるかのような光景が広がっていた。
エネルの表情が、ほんのわずかに硬くなる。
その違和感に敏感に反応するように、彼の指先が水晶に触れたまま力を込める。
次に、手を動かして別の部屋の様子へと切り替える。
だが、そこでも同じだった。
誰一人として動かず、呼吸すら見えない。
(……これは)
エネルは静かに息を吸い、指の力をさらに強くする。
その瞬間、スクリーンの隅に、黒い影が一瞬だけよぎった。
それは、まるで映像の外縁を滑るように、何かが通り抜けた瞬間だった。
それはただの気配のようで、また、何か別の意思を持った存在がその場にいたようにも感じられた。
影は一瞬で消え、映像は再び静寂に包まれる。
エネルは小さく息を吐き、立ち上がる。
その目はもう、ただの観察者ではない。
「……これは、ただの“観察”では済まされないか」
ついさっきまで、推しの恋路を楽しんでいた男の表情が一変した。
その瞳は冷静さの中に、確かな危機感を滲ませる。
推しの恋模様を楽しむはずだった夜は、いつの間にか、
誰も目覚めぬ長い夜へと変わろうとしていた。




