エントランス
プログレッシブな螺旋階段を駆け降りて、内野指定席へー
尾道、豊橋、そして筑紫。体育会系という生き地獄を潜り抜けてきた堀川いえど、コンクリートが旋回しそのまま知覚の扉が開ける程には疲弊していた。
プロ野球選手は人並み外れたタフさを求められるが、それは『背広組』にも通ずることなのかもしれない…。
彼の名は堀川克彦。野球ファンにとってはあまり馴染みが無いであろう、『現役プロ選手』のスカウトマンである。
世間がイメージするのは、『五球団競合大学No.1スラッガーを引き当てた!』とか、『無名高からエース級投手を発掘した!』といったドラフト関連で活躍するアマチュアスカウトであろう。
しかしそれだけでチーム作りが完結するわけではない。トレードにFA、さらには近年導入された現役ドラフトに関連する獲得調査を担当するのがプロスカウトだ。
正直な話、プロの舞台での数字という信憑性の高いデータがある分後者の方がいくらか気が楽…というのはここだけの話だ(堀川談)。
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筑紫市民球場内野指定席の一塁側4列目。息を整えたところで、広島デイモンズvs福岡ウォレッツの二軍戦が始まろうとしていた。
そもそもこの二軍視察ツアーが強行されたのも、堀川が属するデイモンズの上層部から「金満球団の余剰戦力から計算の立つ選手を獲れ」との指令が出ている手前、現地に赴く必要があったのだ。ある程度成績を追って的を絞るというプロセスも含めると、かなりの重労働である。トレードデッドラインは七月三十一日で、今は七月序盤。欲を言えばもう少しスケジュールに余裕があってほしいのだが、年俸の都合で期間ギリギリに仕掛けるのが定石らしい。
スモールマーケットはいつもこうだ。…口ではそうぼやきつつも、堀川は心のどこかでやり甲斐を感じている。
実際、昨シーズンの堀川は成績が低下していた中堅リリーバー横山を引き換えに、横浜の有望株左腕である大嶺の獲得に成功している。
乏しい手札から最大限の利益を掠め取る、貧乏球団にとって最も理想的な形のトレードであった。その実績もあってか彼の評価は鰻登りだ。
今日の先発はその昨年のトレードで得た大嶺だ。順調に球速が伸び、来年にはローテーションの一角を担えるだろう。
それで、相手の先発は…オッサンだ。頑張って観客席を探せば見つかりそうな中年男性。チンタラとマウンドに小走りする様は既に減点対象だ。腹は軽く出ていて、口はわずかにポケッと開いたままでいる。
日本一五連覇の銀河系軍団にはとても似つかわしくない。そして間抜けで薄汚い、そんな男だった。
見てくれが全てじゃないさ。そう堀川は自分に言い聞かせて、その男の投球練習を見守ることにした。
ーえ、おっそ…
死にかけの蚊のように腑抜けた直球をスピードガンは「109km/h」と切り捨てた。本来こんな球はOB戦でしかお目にかかれない。堀川は困惑を隠せなかった。
いや、彼は手を抜いている。でなければ嘘だ。客寄せパンダでも功労者でもない限り、このようなベテラン投手はとうにクビを切られているはずだ。堀川にしては邪な考察が頭をよぎる。
異変を察知したのか、見かねた若い捕手がマウンドに駆け寄った。捕手に相応しい牡馬のような体格にもかかわらず、一つ一つの仕草を見るに穏やかで気は弱そうだった。そもそも投手というポジションは、自己中心的な人間が多い傾向にある。元々温厚である彼は、その投手たちの膨大なエゴに押しつぶされてきた…ということは想像に難くない。
しかしベテラン投手は、こんなにも謙って寄り添ってくれる後輩捕手の思いを踏み躙るような態度をとっていた。ろくに目も合わせず、どこか不貞腐れた表情でマウンドの土を削っていた。さっきからこう、この投手は人の神経を逆撫でするようなことばかりする。簡潔に言い表すなら「嫌な奴」だ。
ーあ、殴った。
ベテラン投手はギャグ漫画のハリセンのようにして、グラブで若い捕手の頭を強めに叩いた。
観客席から怒号が一切飛ばない辺り彼のこういった素行には慣れっこというか、もう諦められてるのだろう。
しかし堀川の導火線へ着火するには、あの日の記憶をフラッシュバックするには、十分すぎるくらいの材料だった。
ーあいつは一体誰なんだ?
ここまで怒りを覚えたのはいつ以来だろうか。危ない人に見られないように、世間体のために自我を抑えようとジンジャーエールを喉に流し込む。そんな堀川のことは構わずベテラン投手はマウンドの土を削り続けている。その行為は彼の心の傷を抉っているようにも見えた。
これまでの疑念が確信に変わると、堀川はスコアボードをキッと睨みつけた。消えかけの電光掲示板が申し訳なさそうに息を吹き返す。ウォレッツ、先発は…
ー 1 荒川
荒川、か…
こいつのことは当面忘れないだろう。所謂、悪目立ちってやつだ。
腹の底からふつふつと沸き上がる不信感を拭いきれないまま、プレイボールは宣告された。
第一投。
相も変わらず球が鈍い。かと思いきや緩やかに下降線を辿った。
ーチェンジアップ?
一番打者の中尾もさぞ面食らっただろう。たまらずチップすると、さっきど突かれた若手捕手が危なげなく捕球した。
捕飛。
一死。
敵ながらあっぱれだった。もしや荒川、人間性はさておき投手としてはかなりの切れ者なのでは?…捕手のリードが著しく優れている可能性もあるが。
ただキャリアの差を考えれば、ここは素直に荒川の実力を認めざるを得ない。…癪で仕方ないが。
わけのわからない葛藤を抱えながらも、あっという間に六回までゲームは進んだ。荒川は続投している。お世辞にもプロとは呼べない球威でも多彩な変化球でカバーし二失点にまとめ上げてるのだから、一定の技量は確かにあるのだろう。
もっとも、全てを手放しに褒められるわけではない。というのも、故意(報復)死球と思われる場面が二回見受けられた。「あんなヘボ投手だから制球が定まってないだけだ」と思うかもしれない。しかし荒川はここまで無四球な上(コントロールは相当優れている)、顔面付近にぶつけられた二人はいずれも打ち崩した序盤にタイムリーヒットを放っている。よってクロ確定だ。残念ながら、人としてはどうしようもないクソ野郎という事実は覆りようがないみたいだ。
それに加え『違和感』のようなものを感じる。まだマウンド上で全てを曝け出せてないような、どこか力を抑え込んでいるような…。とにかく煮え切らないのだ。そして煮え切らないまま六回二死を迎えてしまったのだ。
ー彼に血は流れているのか?赤くドロドロとした液体が波打つことで、数え切れないほどのドラマを生んできた。その虚ろな目には何が映っているのか。
機械に成り下がろうとしている荒川を引き留める術などあるのかー
何を要らぬ心配をしているのだ。恐らく、暑さで頭がどうにかしているのだろう。ジンジャーエールを飲み干して焦げた脳を冷ます。我に返ったところで試合に戻ろう。
順当にいけばこの回を投げ終えて降板という流れになるだろう。しかし一、二塁に走者を抱えている上に、生憎にも次の打者は代打武藤である。
武藤明玟。
ドラフトこそ4位入団だったがプロ入り後はその隠し持っていた才能を発揮し、今や球界最高のプロスペクトに躍り出た。シーズン序盤こそ怪我で出遅れたが、ここまで二軍の69試合で打率.324、OPS1.059、16ホーマーと既に格の違いを見せつけている。この三連戦を終えたら待望の一軍初昇格がほぼ確定している、といった状況だ。
年老いた荒川を調理して、二軍最後の思い出作り…になるかと思いきや荒川も意外にしぶとい。変化球を織り交ぜて小賢しく追い詰める荒川と、若さ故のパワーとそれに裏付けられる年齢離れした技術で迎え打つ武藤。いつまでも見入っていたくなるような好勝負はついにフルカウントとなった(ボールを三つ選んだのは武藤がこの試合で最初である)。
ここにきて初めて捕手を呼び寄せると軽く耳打ちをした。真っ向勝負を選んだのか、それ以上の相談はなく捕手は定位置へ戻っていった。
荒川の眼に光が灯った。内野指定席にまで轟くような魂の心拍音。やはり次代のスター候補との対戦に思うところがあったのだろうか。その考えると彼は案外顔に出やすいのかもしれない。この期に及んで歩かせるという選択肢は、考えられない。
七球目。
高回転のかかった白球は、時空の裂け目のように縦に大きく割れた。ここにいる誰もが肉眼ではっきりと見えるくらい遅い。だが、誰もこの球には触れることすら出来ない。なすすべなく武藤のバットは空を切る。
空振り三振。
チェンジ。
声援もブーイングも送らず大して荒川に興味を示さなかったファン達も、こればっかりはと軽いどよめきとともに自然と拍手が湧き起こった。
ードロップカーブ。
それはいつの日かに誰かが投じた一球とほぼ同じものであった。どうも無関係とは思えない。いつで誰かは忘れたのだが、いずれ辿り着くと信じたい。
もうこの際試合結果はどうでもよくなった。『 荒川の一球』に比べたら、この先の展開など些細なことにすぎない。居ても立ってもいられなくなった堀川は、次を見据えてそっと席を立ち上がった。無名の投手が描いた近代芸術のように美しい円弧は、堀川が去った後も18.44m上にくっきりと残っている。
ーあいつは一体誰なんだ?




