【コミカライズ】夫の書斎から渡されなかった恋文を見つけた話
夫の書斎にある机の引き出しを開けたのは、手紙を書くためにインクが必要だったからだ。
フリージアは朝から、今日は兄に手紙を書こうと考えていた。
クライヴ・エルバ公爵の元に嫁いでひと月になる。
リールデン伯爵家にクライヴから突然婚約の打診があり、良縁だからとあっという間に結婚の運びになった。
フリージアは十八歳。貴族女性としては、結婚適齢期である。
エルバ公爵といえば、家柄もよければ眉目秀麗で物腰も優しいのに、なぜか婚約者がいない。もしかしたら道ならぬ恋をしているのではと社交界では評判の男性だった。
そんな男性から婚約の打診があるとは思わず、驚いている間に両家の間で話が進み、気づけば婚約し気づけば結婚し、あっという間にひと月経っていた。
クライヴがどういう男かわからないまま、フリージアは嫁いだ。
最初の頃こそ不安だったものの、公爵家の使用人たちもクライヴもフリージアに優しかった。
クライヴは二十二歳。年齢が少し離れているせいか、それとも元々寡黙な男性だからなのか、会話が弾むということは少なかった。
けれどどちらかといえばおしゃべりなフリージアの話を、嫌な顔をせずに静かに聞いてくれるような人だ。
今日の空の色。庭に咲いた花。木の実を食べにくるリス。ななつの点があるてんとう虫。美味しかったチョコレートムース。庭園の川にいる魚。それを食べにくる美しい青色の鳥。
些細な毎日の報告を、仕事で疲れているだろうに聞いていてくれるクライヴに、フリージアは淡い恋心を抱き始めていた。
クライヴ様にはとてもよくしていただいています。
私は大丈夫です、お兄様。
手紙にはそう書くつもりだった。
フリージアの母は体が弱く、流行病で亡くなった。
父は騎士で、仕事中に命を落としている。
兄は若くして伯爵家を継ぎ、まるで父のようにフリージアを育ててくれた。
フリージアがなかなか良縁に恵まれなかったのは、伯爵家のそういった事情にあった。
騎士の死とは名誉の殉職だが、死人を出した家を貴族たちは嫌うのだ。
だから、クライヴとの結婚は、まさに降って湧いたような天からの恵みだった。
夫の書斎に勝手に入るのは、よいことではない。
理解していたが、フリージアは優しいクライヴにすっかり甘えてしまっていた。
インク壺を取りに来るぐらいなら怒られないわよねと、濃い色をした木製の立派な机の引き出しを開いた。
そこには、いくつかの手紙が几帳面にしまわれていた。
差出人は書いていない。宛名も書いていない。出し忘れた手紙だろうかと、フリージアは手紙に触れる。
「誰に書いた手紙かしら……」
ふと、フリージアの脳裏に、クライヴについての噂が想起された。
結婚しないのは道ならぬ恋をしているからかもしれない。きっと誰か、想い人がいるのだ。
クライヴと結婚する時にはすでに、フリージアはその噂を知っていた。
だからもしかしたら、クライヴとの関係はうまくいかないかもしれないと考えていた。
けれど実際嫁いでみればそんなことはなく、クライヴに女性の影などなかった。
好奇心に突き動かされるように、フリージアは手紙を手にした。
書斎には今、フリージア一人きり。クライヴは朝から鹿狩りに出かけている。
夕方までは帰ってこないだろう。だから――見るなら、今しかない。
「……駄目よね。勝手に、見たら。いけないわ」
手にした手紙を引き出しに戻した。インク壺だけ机の上に置くと、ぱたんと引き出しをしめる。
書斎から出ようとインク壺に手を伸ばした。
けれどその手は、抗えない何かに誘い込まれるようにして引き出しをあけていた。
手紙を開く。クライヴの綺麗な文字で、白い便箋に言葉が綴られている。
それは、愛を綴った手紙だった。
あなたが好きだ。手に触れたい。唇に触れたい。抱きしめたい。
それが叶わないのなら、夢であなたに会いたい。
熱烈な、香り立つような感情がその手紙にはびっしりと書かれている。
相手の名前は書かれていない。名前を書くことができないような相手なのだ。
――道ならぬ恋。
乾いたインクは比較的新しい。つい最近書かれた手紙だと分かる。
フリージアと結婚したクライヴには、好きな相手がいた。
フリージアは手紙を丁寧に引き出しに戻し、インク壺も戻した。
兄に手紙を書く気力は、フリージアの体からふつりと抜けてしまっていた。
鹿狩りからクライヴが帰ってきた時、いつもならクライヴを出迎えるフリージアは、足が床に張り付いたようにして動かずに、階段の上から顔を出すことができなかった。
使用人たちにコートや剣や弓を預けるクライヴがフリージアを探して二階にあがってきたので、さっと近くの部屋に隠れた。
どうしても、クライヴの顔を見ることができなかったのだ。
手紙を見てしまった罪悪感と、それから、一体誰に恋をしているのだろうという疑問で胸がいっぱいだった。
フリージアにとっては、嫁に貰って貰えるだけで幸運だ。
クライヴがどんな思いを抱えていても割り切ることができると考えて、ここにきた。
けれど――今はもう、フリージアはクライヴに恋をしてしまっている。
高鳴る胸をおさえながら、フリージアは壁に背中を預けて息を潜めた。
どうか足音がこちらに向かってこないようにと祈りながら。
「リーア」
草原にふく風のような涼し気な声がフリージアを呼ぶ。
銀色の髪に青い瞳の美丈夫が、フリージアが隠れている部屋に顔をのぞかせた。
「リーア。こんなところで、どうした?」
いつものよう笑って、クライヴはフリージアの顔を撫でる。
優しい兄のような仕草だ。いつもは愛情を感じるのに、今のフリージアにとっては、その仕草の奥に冷たい何かを感じる。
――クライヴ様は私の向こう側にいる誰かを見ているのではないかしら。
誰なのだろう。
誰の、代わりにされているのだろう。
尋ねたい疑問が次々と湧いてくるが、全て音にならずに消えていった。
「……お帰りなさい、クライヴ様」
「あぁ。ただいま」
「鹿狩りは、どうでしたか?」
「今年は鹿が多い。木の実が豊富なのだろう。小鹿を射った。料理人に、料理を頼んでいる」
「まぁ、それはすごいですね」
「リーアは鹿肉は嫌いではないか」
「お肉は好きですよ。昔はよくお父様が狩りをしてくださいました。懐かしく思います」
「ライネル伯爵は、立派な騎士だった。狩りも得意だっただろう」
皆が、フリージアの父について口を閉ざす中、クライヴは殉職したライネルについていつも敬意をもって語ってくれる。
フリージアはそれが嬉しかった。口数は少なかったが、強くまっすぐで優しく、自慢の父だった。
「ではあとで。このままでは、獣や落ち葉の匂いがするだろう。着替えてくる」
「はい……」
フリージアは足元に視線を向ける。
夫に言えない秘密を抱えてしまうという罪は、フリージアの心を鉄線でギリギリと締め上げていた。
夕食もそこそこに、フリージアは侍女に湯あみをさせてもらった。
浴槽の中で体を洗ってもらいながら、傍付き侍女のアイシャに尋ねる。
アイシャは古くからエルバ公爵家に仕えている執事の家系の女性で、フリージアがエルバ家に嫁いだ時に傍付き侍女として選ばれた。
少々口が軽いところがあるが、親切で仕事もできる。
年齢もフリージアの二つ上で、話しやすかった。
「アイシャ、聞きたいことがあるのです」
「聞きたいことですか、奥様。私に答えられることなら、なんでもおっしゃってください」
「……クライヴ様には、内密にして欲しいのです」
「ええ、もちろんです。奥様の頼みなら、そのようにいたします」
「クライヴ様には、誰か想い人がいるのではないかしらと、思うのです」
「まぁ……! どうしてそう思われるのですか?」
「噂を、聞きました。長らく結婚なさらなかったのは、想い人がいるからだと」
「旦那様はあまり自分のことを話しませんから、分からないですが……一時期、側妃様の姫君を、公爵家で匿っていた時期がありますね。サフィア様です。といっても、かなり以前のことですけれど。十年はたつでしょうか」
「……ありがとうございます、アイシャ」
十年前――大規模な内乱が王国では起こった。王政を苦にした革命戦争が起きたのである。
王子と姫と、王家に連なる者たち数名が革命軍につかまった。
結局革命軍は騎士団によって打倒されて王家のものたちは助けられたが――その時、フリージアの父は命を落としている。
国を守っての死だ。領地に籠っていたフリージアには何が起こったのかまでは分からなかった。
あとから聞いた話によれば、父は誰よりも前線に出て戦い、王子や姫たちを救出したものの、追手から彼らを庇い亡くなったのだという。
救援が来るまで剣を持って立っていた。壮絶で勇ましい死だったそうだ。
その時に救出された姫の一人が、サフィア姫。
フリージアの父はサフィア姫を守り命を失い、クライヴは――心の傷を癒すためか、それとも混乱する城に戻すことができず一時期匿っていたのか、ともかくエルバ家に身を寄せたサフィア姫に恋をしたのだ。
何の因果か――フリージアは会話を交わしたこともないサフィア姫に、大切なものを二つ、奪われてしまった。
寝室のベッドで横になり、フリージアはシーツの皺を指で辿っていた。
サフィア姫は二十歳。隣国の王の第二妃として嫁いで、半年になる。
クライヴはずっとサフィア姫に恋をしていた。けれどそれは叶わぬ恋だった。
だからようやく諦めて、フリージアを娶ったのだ。
きっと、誰でもよかったのだろう。誰でもよかったから、嫁ぎ先のなかったフリージアを娶った。
咲き始めた花が萎んで、茶色く枯れていく。それでも恋心は消えていかない。
なんて嫌な感情だろう。楽しくて嬉しくて幸せで。そんなもので溢れていられたらよかったのに。
はじめから知っていたら、クライヴに恋などしなかった。
衣擦れの音に視線を向けると、湯あみを済ませたクライヴが隣にいた。
緊張と喜びで震えていた心も、今は氷のように冷たい。
頬に触れられ、唇が近づく。当たり前のように触れ合う唇に、愛しさよりも違和感が先だった。
「リーア」
「……クライヴ様」
「抱きたい」
「……今日、は」
熱を帯びた言葉に、首を振る。拒絶したのははじめてだった。
クライブの手がフリージアの下腹部を労わるように撫でた。
心は冷たいのに、体に熱が灯る。嫁いでから、幾度も夜を過ごした。クライヴがフリージアを求める日は多かった。
それは愛されているからだと思っていた。
けれど――早く子を得なくてはいけないという、義務感からだったのかもしれない。
悪い方に悪い方にと、思考回路が勝手に想像を膨らませていく。
「リーア、まさか」
「一月ではまだ、子供は……」
「月のものか? すまない、体が辛いのだな」
小さく頷くと、クライヴはフリージアの額に口づけて、髪を撫でる。
抱き寄せられて、腰を撫でられる。また嘘をついてしまった。フリージアは何も言わずに、体を固くしながら目を閉じた。
あの手紙を見てしまってから、心はずっと冷たいままだ。
愛がなくても結婚はできる。誰を想っていようと、クライヴが優しいことには変わりない。
サフィア姫の代わりに愛してもらえばいいのだ。身代わりにしてもらえばいい。
頭では分かっているのに、それを考える度に虚しくなった。
離縁をしてもらうべきだろうか。こんな気持ちのままクライヴの元にいて、生まれてくる子は不幸ではないのか。
徐々にフリージアの口数は減っていった。
咲いた花の話も、庭に入り込んだ猫の話も、魚のような形をした雲の話も、大好きだった父親の話もしなくなった。
視線は交わらず、会話さえ消えていく。
全て自分のせいだ。こんな状態でクライヴの傍にいるのは、クライヴにも失礼だろう。
妻としての役割も、満足に果たすことができない。
このままではいけないと、笑顔を心掛けて、気持ちを隠した。いつも通り振舞ってみれば、心にあいた穴はさらに広がっていった。
クライブはフリージアの態度について、怒るようなことはなかった。
月のものがくると女性は不安定になるものだから気にしなくていいと、フリージアの髪を撫でた。
王家の晩餐会の招待状が届いたのは、そんな最中のこと。
王の誕生を祝うための祝賀会である。隣国に嫁いだ姫たちも、この日は皆帰ってくる。
当然、サフィア姫も参加する。
拒否するわけにもいかず、フリージアはクライヴと共に晩餐会に向かった。
着飾ったクライヴは誰よりも美しく、貴族たちの視線を集めていた。
誰も彼もをクライヴを見ている。フリージアはお飾りの妻だ。もしかしたら皆、それを知っているのかもしれない。
知っていて、クライヴの隣にいるフリージアを嘲っているのかもしれない。
大広間では、クライヴはすぐに友人たちに囲まれた。挨拶をする者たちにフリージアを妻として紹介してくれる。
礼をしながら、フリージアはいたたまれなさを味わっていた。
クライヴは友人たちに、恋の悩みを打ち明けていたかもしれない。一体何人の人たちが、クライヴのあの手紙に書かれていたような熱く激しい恋慕の感情を知っているのだろうか。
素知らぬ顔でクライヴの隣にいる妻の自分は、どれほど滑稽に映るだろうか。
壇上に国王が現れて皆に言葉を送った。
革命戦争が起こった時の王は圧政をおこなったために民から蛇蝎の如く嫌われていたが、今の王はかつて革命軍に誘拐された王子である。
革命軍の声は民の声だ。民の悲鳴をその目で見て耳で聞いた王子は、立派な王になった。
そう、フリージアの兄は言っていた。
「……クライヴ!」
王の挨拶が終わると、可憐な声と共にサフィア姫がクライヴに駆け寄ってくる。
その名の通り、青く輝く瞳と髪を持つ、宝石のような姫である。
「会いたかったわ、クライヴ!」
親し気に名前を呼んで、無邪気にクライヴの手を取る。
サフィア姫の瞳には、フリージアなどうつっていなかった。
「……あの、私、兄を探してきます」
とても、一緒にはいられない。二人の姿を見ていたくない。
叶わぬ恋に燃える瞳で見つめ合う二人の傍にいることなど、フリージアにはできなかった。
ふつふつと心臓の奥から沸き起こるのは嫉妬だろう。
そんな感情はいらない。フリージアはただ、美しい花を愛でて、鳥を愛でて、綺麗な空を見上げていたい。
黒くどろどろしたものに、体に泥がつまってしまったかのように支配されるのが、嫌だった。
嫌な女だ。自分が嫌いだ。ただクライヴの幸せを、願うことができない。
二人の再会を喜ぶことができない。
「リーア……!」
「私のことは、お気になさらず。久々に兄に会いたいのです」
クライヴに掴まれた腕を解き、フリージアはその場から逃げ出した。
多くの貴族たちの集まる会場を、人の合間をぬってフリージアは兄を探した。
リールデン伯爵――ジアルストも晩餐会に来ているはずだ。
顔が見たい。たくさんの人が集まるこの場所で、フリージアはひとりぼっちだった。
誰も、フリージアに話しかけない。哀れみの視線だけが向けられている。
そんな錯覚に支配されながら、貴族たちにぶつかりそうになりながら会場をさまよう。
嫌な汗が、背中を流れた。一体自分は何をしているだろう。
今頃クライヴはサフィア姫の手を取って、再会を喜んでいるだろうか。
「フリージア」
手を掴まれて、引き寄せられる。
そのままぐいぐいと、壁際に連れていかれた。
フリージアの手を掴んでいるのは、ジアルストだった。
安堵から、じわりと涙が滲む。一月ぶりにみた兄は、いつもどおり父親みたいな顔をして、フリージアを覗き込んだ。
「どうしたんだ、フリージア。こんなところに、一人で。何かあった?」
「お兄様……私、私」
「落ち着いて話してごらん。大丈夫だ、私はお前の味方だよ」
フリージアを落ち着かせるように、両腕を掴んでジアルストはゆっくりとした声音で言った。
幼い時から、兄は泣き出すフリージアをこうして宥めてくれていた。
母がいない。父もいない。
寂しい。
死んだ騎士の子供だと馬鹿にされた。悔しい。
そんな感情でいっぱいになって、言葉のかわりに涙があふれてしまうフリージアが落ち着くまで、辛抱強く待っていてくれる人だった。
フリージアを馬鹿にした貴族の子供は、翌日には頭に瘤をつくっていた。
何があったのか大人たちが尋ねても、青ざめ震えるだけだ。
きっと兄がかたき討ちをしてくれたのだろうと、フリージアは考えていた。
「私……クライヴ様と、離縁をしたいのです……!」
はらはらと涙が零れる。
もう、駄目だ。とても耐えられない。こんなことがずっと続いたら、心が壊れてしまう。
どんどん嫌な女になってしまう。
嫌な感情ばかりがいっぱいになって、空の青さも花の香りも、きっと忘れてしまう。
「――リーア」
ざわついていた会場が、水を打ったように静まり返った。
ジアルストが困り顔で――フリージアを通り越して、背後に視線を送っている。
引く声に名前を呼ばれて振り向いたフリージアが見たものは、眼光だけで人を射殺せるほどに恐ろしい表情をした、クライヴの姿だった。
「リーア、離縁などはしない。ジアルスト殿、リーアを連れ戻す気なら、俺は貴殿に決闘を申し込まなくてはいけない」
「クライヴ殿、絶対に嫌ですよ。私は父と違って、剣はまるで駄目なんです。知っているでしょう?」
苦笑交じりにジアルストが言う。
フリージアは震えながら、ジアルストに縋りついた。片腕でフリージアを抱きしめるジアルストを、クライヴは殺意に近い感情が籠る瞳で睨んだ。
「私はフリージアの兄ですよ。そう怒らないでください。フリージアはあなたについて何か勘違いをしているようだ。何かしましたか、クライヴ殿」
「何もしていない。……いや、分からないな。リーアを抱けるのが嬉しくて、つい毎日のように求めてしまったのがいけなかったのか? 無理をさせただろうか。俺は何か嫌なことをしたか? 出来る限り傷つけないようにしてきたつもりだ。リーア、すまない。もう少し、控えるようにする」
「あ、あ……っ」
見当違いな謝罪をしてくるクライヴに、フリージアは顔を真っ赤にして首を振った。
皆が何事かと、フリージアたちを見ているというのに。
夫婦のことをはっきりと口に出されてしまい、フリージアは今度は別の理由で逃げ出したくなった。
「外で……が、いけなかったか」
「ち、ちが、ちがいます、ちがうの、ちがいます……!」
しどろもどろになりながら、フリージアはできるかぎり大きな声をだして否定をした。
できれば今の言葉は、聞こえなかったことにしていてほしい。
なんてことを言うのだと、真っ赤になって首を振るフリージアを、クライヴは愛し気にみつめた。
「では、なぜ?」
「そ、それは……クライヴ様には、好きな人がいるから、私は邪魔なのだろうと……」
「俺の好きな女性は、リーアだけだ。何のことを言っている?」
「サフィア姫のことが……」
「フリージア、ごめんなさい。本当に、ごめんなさい!」
言ってはいけない。分かっているのに口にせずにはいられなかった。
クライヴの背後から顔を出したサフィア姫が、フリージアに頭を下げた。
「クライヴがなかなかあなたに結婚を申し込めなかったのは、私のせいなの。私が結婚するまでは、あなたとの結婚も許さないと言っていたから……クライヴはあなたのことがずっと好きだったのに。さっきも、あなたに挨拶もしなかった。私のクライヴを奪ったあなたを憎らしいと思ってしまって……!」
頭を下げるサフィア姫の背後に、逞しい男性がいる。褐色の肌が特徴的なその男性は、隣国の王マハードである。「まるで悪女だな」と呆れたように言って、サフィア姫の頭に手を置いた。
サフィア姫は嫌がらずに「マハード様が好きですよ、今は。ただ少し意趣返しをしたかったの」と言って、もう一度フリージアに「ごめんなさい」と謝った。
「リーア、すまなかった。先程は皆の手前、サフィア姫を突き放すことなどできなかった。君が嫌がるのなら、金輪際この方とは関わらない。貴族籍もいらない。君を連れて、どこかの森で二人で暮らそう」
クライヴが一歩前に踏み出すのを、フリージアは混乱しながら首を振って拒絶する。
「あ、あの……クライヴ様の机に、たくさんの恋文がありました。勝手に見てしまったのです、ごめんなさい! あれは、サフィア姫にあてたものではないのですか……?」
「あれは全て、君に書いたものだ」
「で、ですが」
「フリージア。お前が貴族の子供たちにいじめられた翌日、皆怪我をおっていただろう?」
「はい、お兄様」
「あれは全て、クライヴ殿の仕業だ。フリージアに婚約の打診が来なかったのも、クライヴ殿が貴族たちにフリージアに婚約を申し込んだら、フリージアをかけて決闘を申し込むと言って、握りつぶしていたせいだ。サフィア姫が隣国に嫁がれたので、クライヴ殿は堂々と、お前に婚約を申し込んできたのだよ」
ジアルストが、言い聞かせるように、フリージアに言う。
「サフィア姫がお前を傷つけないように、待っていてくれたのだ。十年前の革命戦争で、サフィア姫はエルバ家に匿われた。その時から結婚してくれと言ってきかなかったらしい。それは無理だ。エルバ家は王弟が婿入りしている。サフィア姫とクライヴ殿は従兄妹だ。従兄妹の婚姻は王国では推奨されていない」
「リーア。俺は、君のことがずっと好きだった。俺の剣の師は、ライネル様だ。……君は覚えていないだろうが、俺は幾度か幼い君に会っている。ライネル様がお亡くなりになったときも……」
あの時は――私はとても、混乱していた。
戦に向かわれたお父様が、遺体になって戻ってきたのだ。
静かに葬儀が行われる中、私はお兄様にずっとしがみついていた。
――あぁ、でも。
お兄様は家長として忙しくて。
私のそばには――。
「大丈夫か、フリージア」
多くを語らず、ただ寄り添っていてくれた人がいた。
「大丈夫です。……王家の方々を守って、父は亡くなったのでしょう。立派です。父は私の誇りです」
泣きながらなんとかそう口にすると、その方は私の頭を撫でてくれた。
十年前の記憶だ。顔は、ぼんやりとしか思い出せない。
けれどその優しくて大きな手は、思い出せる。
「君に気持ちを伝えたくて、何度も手紙を書いた。だが、どうにも恥ずかしく、渡す勇気が出なかった。愛の手紙など、似合わないだろう、俺には」
「……あれは、私に……?」
「あぁ。全て、君に書いた。リーア。俺は君だけを愛している。離縁などはしない。君が俺を嫌おうが、離すことなどできない」
「クライヴ様、ごめんなさい……!」
全て――勘違いだった。
ただ一言、あの手紙は誰に書いたのかと尋ねればよかったのだ。それだけのことができなかった。
そのせいで――国王陛下も見ている貴族たちの集まる大広間で、離婚騒動を巻き起こしてしまった。
「ごめんなさい、ごめんなさい……!」
「リーア、俺も、すまなかった。手紙を君に渡していればよかったのだな。……どうにも照れてしまって」
「クライヴ様……私が勝手に手紙を見てしまったせいです」
「いや、いいんだ。あれは君のものだ。……君の愛らしい泣き顔を、皆に見せたくない。帰ろう、リーア」
クライヴはフリージアを抱き上げると、颯爽と大広間から出て行く。
フリージアはしばらく起き上がることができないほどに愛されることになるのだが、今はまだ知る由もなく、羞恥で顔を真っ赤にしながらクライヴの肩に顔を埋めていた。
数日後、フリージアとクライヴは国王エルバートに呼び出された。
エルバートからの呼び出しの手紙には『隣国の王たちも集まる晩餐会の場を夫婦喧嘩により混乱させた。クライヴには罰則を与えなくてはいけない。故に、恋文を全て提出するように』と書かれていた。
「よく来てくれた、二人とも。呼び出してしまってすまないな。フリージア嬢は、その後大丈夫か?」
「はい、陛下。お恥ずかしい姿をお見せしてしまい、申し訳ありませんでした」
あの夫婦喧嘩――ともいえない離縁騒動のあと、フリージアはクライヴの愛情を嫌と言う程思い知らされていた。
具体的には、まるで実際に体を撫でられているかのような熱い思いをつづった恋文を、耳元で散々朗読して聞かされ続けたのだ。
クライヴは渡すのが恥ずかしいと言っていた。
だが、恥ずかしがっていたせいでフリージアを傷つけてしまったことを猛省し、ならば朗読しよう――という結論に至ったようである。
――これは、五年前の五月に書いたもの。君は十三歳。一度髪を切った。木の枝が絡まってとれなくなったのだと聞いた。可愛らしかった。
――これは四年前の六月に書いたもの。君の身長は伸びるのをやめた。身長が伸びなくなれば、体重が増えるかもしれないと心配して、食事の量を減らしたと聞いた。可愛らしいが、心配だった。君は細いから、もっと食べた方がいい。
――これは、三年前の九月に書いたもの。君は十五歳。俺は十九歳。もう結婚を申し込んでもいいのではないかと考えていた。だがサフィア姫が、そんなことをしたら一生俺の相手を恨み続けるというので、黙っていた。
サフィア姫のことは我儘で自分勝手で、大嫌いだった。だが、誘拐された際に怖い思いをしたせいだとも知っている。サフィア姫には誘拐された時の記憶がない。怖い記憶を消したのだ。優しくしろと父に言われていた。
サフィア姫には君の名前さえ知られたくない。俺が誰を想っているのか黙っていろと、それを知る者たちには言っていた。
フリージアの知らない、クライヴの過去が、手紙には綴られている。
そこにはフリージアの名前は書かれていないが、手紙の内容は年をおうごとに、激しく強い愛情に満ちるようになっていった。
そんなものを読まれながら、抱きしめられて、深く愛されては――フリージアもクライヴの愛情を再確認せずにはいられなかった。
「二人には、謝罪をしなくてはならない。サフィアのことだ」
「ええ、本当に」
ソファの隣に座るクライヴが冷たい声で言ったので、フリージアはその腕を軽く引っ張った。
国王陛下に意見をするのは、不敬である。
たとえエルバートとクライヴが従兄弟であろうと、いいことではない。
「実際、俺はとても困っていました、陛下。あんなものを、押し付けられて」
「私も困っていた。十年前の革命戦争の際に、あれの母はあれの目の前で死んだ。サフィアはその時の記憶がないのだ。ライネル殿に私たちは助けられたが、それさえ覚えていない。私はよく覚えている。勇ましい、背中だった」
「……はい」
こうしてエルバートから声をかけられたのは、はじめてだ。
鼻の奥がつんと痛み、フリージアは手を握りしめた。
父が褒められて嬉しい。その生きざまは、フリージアの誇りだ。
けれど――できればもう少し、一緒にいたかった。
花嫁姿を見て貰いたかった。孫を、その手に抱いてもらいたかった。
「すまなかった、フリージア嬢。サフィアを皆が不憫に思い甘やかしたせいで、あのような性格の女に育ってしまった。クライヴ以外の男とは結婚しないと我儘を言い続け、ようやく――無理やりマハード殿に貰っていただいたのだ」
「嫁ぐその日まで、手が負えないぐらいには大暴れしていたそうですね」
「あぁ。第二妃など冗談じゃないと言ってな。あれの母も、側妃だった。革命軍の手で誅殺されるほどには、嫌われていたのだ。浪費家で我儘で嫉妬深かった。サフィアもよく似てしまった」
エルバードは本当に悩ましく思っていたようで、疲れたように額に手を置いて、深い息をついた。
「マハード殿の後宮には、よくできた女性たちが暮らしている。今は第五妃までいるはずだ。彼女たちに再教育をしてもらうために、サフィアを嫁がせた。……すこしはまともになったかと思えば、あれではな」
「エルバート様。……サフィア様は謝罪をしてくださいました。それに、クライヴ様の愛情を疑い、勘違いしたのは私です。言葉が足りなかったのです。大切なお祝いの場を混乱させてしまったのは、私のせいです」
「罪は俺にある。陛下、責めるなら俺を。リーアは何も悪くない」
「二人とも、今回は謝罪のために呼んだのだ。二人を責めたいわけではない。……だが、フリージア嬢はライネル殿に似て生真面目な人だろう。気に病まないためにも、罰はあたえようと思う」
エルバートはそう言って、クライヴの手紙を手にすると、意味ありげに微笑んだ。
そうして――。
エルバ家の離婚騒動は、国王も隣国の王も集まる場で繰り広げられたせいで、隣国にまで知れ渡り、酒の席の笑い話として語り継がれることになる。
クライヴの愛の手紙は国王命令で王家に提出させられて、そのあまりにも重たい愛の詩は、大広間の石碑に刻まれた。
晩餐会のたびにフリージアは、石碑を見ては恥ずかしさに逃げ出したくなる気持ちを味わうことになった。
王国では、離縁騒動は石碑の前で行えば、円満に解決すると──愛の石碑として、長く親しまれていくことになる。
それはフリージアたちの子供が成長して、さらに次の世代になって、その次の世代に代替わりしていってから。まだ先の話である。
お読みくださりありがとうございました!
評価、ブクマ、などしていただけると、とても励みになります、よろしくお願いします。
陛下、じつはフリージアを娶ろうとしてましたが、クライヴに邪魔されてます。という裏話です。