告白
今回の話にもチェスの描写がありますが、話の流れの都合上、(需要があるかはともかく)あとがきでの解説は次回に掲載しようと思っております。
「僕が君に婚約を持ちかける意図、か。逆に、君は何だと思う?」
殿下はそう言いながら、私の先程出したポーンを自身のポーンで捕らえる。
「…それが分からないから聞いているのではないですか。」
応戦するように、私もナイトで彼のポーンを捕らえた。
すると、殿下は笑いながら動かしていないナイトの前のポーンを1マス進めた。
「はは、そうだったね。
……一言で表すなら、それは恋慕の情だね。」
「………え?」
あまりにも唐突で、意図していない答えが返ってきたからつい呆気に取られてしまった。
「ああ、これは全くの政略抜きでの気持ちだよ。駆け引きとかそういうのもない。普通の御令嬢だとここまで注釈をつけて伝える必要もないけれど…君は、そうはいかないからね。」
ということは、本当に…
「…本当に君は可愛いね。こんな話をしただけで真っ赤になってしまって。ああ、他の男達を君から何年も避けていた甲斐があったよ……こんな顔、僕以外が見ている可能性なんて考えたくもない。」
…たとえ彼のこの気持ちが本当だとしても、この不穏な物言いは気になってしまう。
そう思い、羞恥心に震えていた心を引き締めて彼に向き合おうとすると、思わずノクターン殿下のねっとりとした視線に絡め取られてしまった。
彼の、普段は理知的で剣呑な鋭さを秘めていた瞳は、今はとろとろの蜂蜜のように甘さで、熱で、蕩けてしまっていた。
「…ねえ。僕はね、何年も前からこれを計画していたんだよ?君だけをずっと、ずっと見ていたんだよ?…気になるよね?なら、ゲームを続けなくちゃ。ほら、君の出番だよ?」
そういうと、彼は恍惚とした表情のまま、私の視線をチェスボードへと向けさせる。
私はぐらつく気をできるだけ引き締めてから、次の一手を考え始める。
…とりあえず、今の状態の彼と一緒にいるのは不味い気がする。何より私もその雰囲気に呑まれてしまう……となると、勝負を仕掛けて早く終わらせるしかない。どのみちこの盤面は強気で攻めないと勝てない。
ならば…と、私はこれまで動かしていない方のナイトを動かした。
「…へぇ、そう出るんだね。となると、僕もこうかな。」
彼はそう楽しげに言うと、ビショップを動かし、私の二つのナイトの延長線上に来るようにした。
「…殿下は、なぜ私のことを?そもそも接点も記憶の限りないのですが。」
できるだけ冷静を装って質問を投げかける。
「そうだね、今の君からすれば僕は印象に残っていないんだろうね。でも、僕から見れば君は強烈な印象を残していったんだよ?喉から手が出るくらい君が欲しくなるほどには、ね。」
彼の視線から、気を抜けば溶けてしまいそうなほどの熱を感じる。自分の気を逸らそうと、また質問を投げかけることにした。
「…それは一体。……というか、その場合はなぜ今になって行動し始めたんですか?」
「ああ、それなんだけど。まず、手を動かしてみれば?」
殿下の視線が私の手元にじっとりと絡み付いてくるのを感じつつ、私はナイトを守る位置へとビショップを動かした。
すると、殿下は満足したかのように瞳を細めながら、話し始めた。
「そうだね…そもそも、僕は今になって動き始めたわけではないよ?僕はずっと前から動いていたんだ。それも、君に興味が湧いてきた頃から。」
「え、それって…」
彼の言わんとしていることに気づくと、背中に嫌な汗が滲みはじめた。
「…そう。君が『僕が動いた』と認識していた行動の数々は、あくまでも最終段階のものだよ。最後の一押し、とでも言うべきかな?」
そう言うと、彼はまだ動かしていない方のナイトを動かした。
私は胸の奥に広がる冷たい感覚を無視すると、少し震える手でビショップを動かした。
「…具体的には。」
「そうだね…まず、お茶会は君と正式に顔合わせするための手段だったし、その前からも色々調整していたよ?ほら、弟も僕が目的を持って貴族達をコントロールしていたとか言っていたじゃない?」
そう言うと、殿下はあの蕩けた目のまま、口だけはいつもの不敵な笑みを浮かべた。
「ねえ、前までは権力争いが絶えなかった上位貴族のパワーバランスが、最近になって安定しているのを不思議に思ったことはない?それはね…伯爵家から婚約者を取るためだよ。」
そう言いながら、殿下は嬉しそうな顔でクイーンを動かした。
「えっ…」
あまりにも定跡から離れた彼の動きに、つい呆気に取られてしまう。
「…どうしたの?早く動きなよ。」
チェスボードの盤面を再び確認するものの、先ほどまで考えていたパターンとの乖離からどうしても混乱してしまう。彼の話している内容もまた内容で、次の一手を即座に思いつくほど、冷静になれそうにはなかった。
「……そうだね。よし、条件を追加しよう。もし君が途中放棄したら…強制的に僕との婚約に同意したってことにすれば、どうかな?」
「いや、それは…というか勝つことに興味はないって…」
「そうだね、僕は勝敗には興味がないよ。でも、君と話す時間は欲しいからね…1試合分は少なくとも、座らせてもらうよ。」
そう言うと、彼はこちらに顔を近づけて囁いてきた。
「ほら、早くしないと…分かってるよね?」
私は、頷くことしかできなかった。
そして、恐る恐るチェスのピースへ手を伸ばすと、私はナイトを動かすことにした。
すると、ノクターン殿下は満面の笑みでクイーンを私のビショップの隣に動かした。
「…ねえ、君はさ。僕がなんで君にこんなことまで話しているのかが分かるかな?」
「いや、それは…」
「ほら、正直に言いなよ。僕はね、君を何年も見ているんだよ?嘘の一つくらい分かるさ。あ、いつものはぐらかすのも駄目だよ。」
…これは、正直に答えるしかないか。
「…私には、ノクターン殿下の意図が読めないのは本当です。だって、本当にそこまで事細かに計画しているのに、私にそのことを話してしまったら…」
「…話してしまったら?」
しまった。言い過ぎた。
「…そうしたら、君はどうするの?」
彼の目は、心底楽しそうに細められた。
「もしかして君は、逃げれるとでも思っているの…?」
その熱の籠った瞳を、その恍惚とした、楽しげな表情を、見てしまった私は…つい、えも言われぬ恐怖感に身を震わせてしまった。
「ねえ、手を動かしてよ。」
突然地を這うように低くなった彼の声に応えるように、私は震える手でビショップを動かした。
すると、ノクターン殿下は笑いながらナイトを動かし、私のポーンを捕らえてしまった。
「あっ…」
しまった。罠にかかってしまった。
私は急いで態勢を立て直そうと、ビショップを動かし、殿下のナイトを捕まえた。
しかし、時すでに遅し。
殿下はそのまま、もう一つのビショップで私のナイトを無情にも捕らえた。
「チェック」
そう宣言すると、殿下は頬を赤らめながら、最上級の甘い笑顔をこちらに向けてきた。