2
三ヶ月ぶりに自分のアパートの布団の中で、沖愛里は目が覚めた。
自分だけの匂いが、心地良いような、でも少し寂しくて、枕を思い切り抱き締めてみたけれど、胸の中の空虚は全然埋められない。
枕元にあったスマートフォンはまだアラームを鳴らしていない。今日は朝からシフトに入れられていたから八時前には店に行かなければならなかったが、愛里がセットした時刻はそれよりもずっと早く、テレビを点けてもまだ六時前のニュースを伝えているだけだ。
いつの間にか肩に掛かるくらいに伸びた髪はぼさぼさで、昨夜乾かさずにそのまま眠ってしまったことを思い出す。珍しく読書なんかした所為だ。それでも中学の頃から本好きだという桜庭美樹が言うだけあって、枕元に伏せた文庫本を、愛里は再び手に取った。
教授の病気が判明して、やっとヒロインの気持ちに向き合おうとしたところで病魔との戦いになり、再び気持ちがバラバラになっていく。そこまで読んで、思わず泣きながら眠りに落ちてしまったのだ。
手鏡で瞼が腫れていないか確認すると、栞を取って文庫本に挟んだ。とぼけた顔の犬が書かれた栞は、ちょっとだけ気に入った。
布団から抜け出すと、顔を洗いに立つ。
髪はどうしようか。少し濡らして整えれば何とかなるかな。仕事中は後ろで一つに纏めてしまうからバレないだろうが、いい加減な見た目で店に行きたくはない。今日もきっと、涌井祐介は店に出ているから。
彼の顔を思い出すと、溜息が漏れ出す。
仕事はあまり好きじゃないと言っていた。自信なさそうに作業する様を、いつも同じ社員の小田川さんからあれこれ注意されている。それでもアルバイトの子たちと仲良く楽しげに会話したり、仕事終わりに遊びに行ったりと、人付き合いには積極的だった。
そんな祐介のことを支えている。
そう思っていたのに、どうして彼はあんな言葉を愛里に投げつけたのだろう。
――体だけ。
その言葉で傷つけてでも、別れなければいけない事情でもあったのだと信じたい。
化粧ポーチに手を伸ばしたが、思い直して、勝負用に仕舞ってある化粧ボックスを探す。
いつもよりもできる女子の顔を、作ってやるんだ。
そう覚悟を決めて、化粧に取り掛かった。
愛里が喫茶ブラウンシュガーの前までやってくると、まだシャッターは半分ほど開けられた状態で開店準備が進められているところだった。中からは楽しげな涌井と、おそらく織田詩乃だ。その歓談の声が聞こえてくる。
しゃがみこんで、愛里はシャッターの下から店内を覗き込む。
彼は箒を床に突いてそれに体重を預けながら、目元の笑みを詩乃に向けて時折外まで響く大声で笑う。詩乃の方はその相手をしつつ、テーブルと椅子やソファのセットを整えていた。小田川がいないから気楽なのだろう。
今日のキッチンスタッフは誰だったろうか。もし竹垣賢人なら安心だけれど、彼以外なら社員が手伝わないと間に合わない。
愛里は大きく息を吸い込んで立ち上がる。
シャッターを潜って中に入ると、
「おはようございます」
と涌井祐介を見据えて挨拶をした。彼はちらりと見やったが挨拶は返さず、そのまま詩乃に話し続ける。どうやら内容は小田川の悪口らしい。
「おはようございます、沖さん」
詩乃の方は愛里が通り過ぎる時に丁寧に頭を下げて挨拶をしてくれた。お嬢様、といった言葉がよく似合いそうな子だと感じる。
「よろしくね」
笑顔でそう返して、奥のロッカーに向かう。
涌井祐介は今、どんな心境でいるだろうか。