10歳 その1
どうやら私は馬に蹴られたらしい。
らしい、というのも私からはその瞬間の記憶がすっかり抜けて落ちていたからだ。
シュタットフェルト伯爵家の長女である私エイミー・シュタットフェルトは、その日王城でのお茶会にお呼ばれしていた。
私のお母様は王妃様の幼馴染で仲の良い友人でもあった。そのため個人的なお茶会にお呼ばれする事が何度もあって、私もそれにくっついていくようにお茶会に参加していた。
今日もお母様と一緒に王城に上がり、見事な花々が咲き誇る庭園で美味しいお菓子とお茶を楽しんでいた。その途中、この国の第二王子であるリチャード殿下がふらりとその場に現れたのだ。
「こんにちは。シュタットフェルト伯爵夫人、エイミー嬢。本日も母上とのお茶会ですか?」
にこりと柔和な笑みを浮かべて挨拶をする殿下は、お茶会の途中にこうやって現れることがしばしばあった。
立場上、同年代のお知り合いが少ない殿下は、2つ年下で10歳の私を妹のように可愛がってくれていた。大人同士の会話には混ざりにくいだろうからと話相手になってくれたり、庭園を案内してくれたりと色々な面倒をみてくれるのだ。
最初は初めて会う王子様の存在に気後れしてどう接すればわからず戸惑っていた私も、いつも優しく紳士的に接してくれる殿下に少しずつ打ち解けて、気付けば殿下の事が大好きになっていた。
個人的なものである上にお誘い相手はお母様なのだから、必ず参加する必要もないお茶会に毎回一緒に行くのだって、殿下に会いたいという下心が大いに含まれている。
「では、少々エイミー嬢をお借りしますね」
考え事をしているうちに、殿下と王妃様とお母様の間で何かやりとりがあったらしい。
殿下の手が恭しく私の方へ差し伸べられて、私は一も二もなくその手を取った。
「エイミー嬢は私の馬が見てみたいと言ってくれただろう?」
殿下にエスコートをされながらてくてくと庭園を歩いていく、いつもの散策とは少し違うなと思っていたところでそんな声がかけられた。
「はい」
それは何度か前のお茶会の時の何気ない会話だった。殿下に専用の愛馬がやってきたという話を聞いた私は興味を惹かれ「ぜひ見てみたい」と告げたのだ。
そんな些細な会話を覚えていてくれていたことが嬉しくて私の頬が緩む。
「今日はちょうど時間が取れたんだ。このまま厩へ向かっても?」
「ぜひ! とっても楽しみです」
そうやって二人で厩へ向かい、初めて間近で見る馬に私は興奮しきりだった。
それが良くなかった。馬は賢い生き物ではあるが同時にとても臆病だ。
仲良くなりたい一心で迂闊にも後ろから馬の元へと駆け寄った私は、見知らぬ興奮した人間が近づいてきた事に怯えた馬に額を蹴り上げられ、そして意識を失ったのだ。
王城の客室で意識を取り戻し、王家の侍医の診察を済ませた私に、事の顛末を殿下自ら説明してくれた。
お母様と王妃様は何やら色々な連絡やら手続きを済ませているらしく、この客室には殿下と私の二人きり。
鎮痛剤が効いてきたのか額の痛みは幾分か治まってきているが、話を聞き終えた私は自分の短絡的な行動に頭が痛くなる思いがした。
10歳の無邪気な少女としてはギリギリ許される範囲かもしれないが、はしゃいで馬に近付くなど伯爵家の令嬢としてはあまりにもいただけない行動だ。
その上、今は夢で見た前世、25歳の私の記憶が混ざり合っている。馬に後ろから近付く事がどれだけ自殺行為かの知識がある私には、とてつもない事をやらかしたという後悔しかない。
とりあえず額の怪我だけで済んだ事が御の字だ。伯爵家の令嬢が王家の馬により命を落としたなんて事になっていたらどれだけ大問題になっていたのだろうかと思うと、自分の思慮のなさに呆れかえる。
まあ、記憶を取り戻す前の10歳の私にそれを求めるのも少々酷かもしれないけれど、それにしたってはしたないわよ私!
一通り自分を叱咤すると、起こってしまった事はもうどうしようもないと気持ちを切り替える。この辺りは前世での私の思考回路が大いに役立っている。
失敗して原因を洗い出し、十分に反省したら、それをいつまでも引きずるのは良い事ではない。
同じ問題を起こさないようにするにはどうすればいいか、失敗の後始末はどう取ればいいのか、そうやって思考を切り替えねば仕事は回らないのだから。
そして、次に思い当たった問題に自分が青ざめていくのがわかる。
「あの……殿下にお怪我は?」
私一人が怪我をしたのであればそれでいい。しかしその短慮さが一国の王子様を巻き込んでしまったとしたらあまりに大事だ。
目に見える範囲では怪我は無いように見えるが、服の下に隠れた部分まではわからない。私を蹴り上げたあの馬が、その後も興奮を抑えきれずに殿下にまで傷を負わせていたとしたら……。
「ああ、大丈夫だよ。エイミー嬢。私には傷一つない」
「そう、ですか。よかった……」
とりあえず一番の問題はクリアしたようだと、ホッと胸を撫で下ろす。
となると、次の懸案事項に方を付けなければいけない。
「殿下……お願いがあるのです」
「何かな? エイミー嬢」
恐る恐る口を開くと、殿下は柔らかい笑みを返してくれた。
「どうか、あの子に処分などは与えないようにしてください。お願いいたします」
あの子というのは勿論、私を蹴り上げたあの馬の事だ。この怪我は全ては私の短慮さが招いたことであってあの馬に咎はない。
けれど、仮にも伯爵家の令嬢を傷付けてしまっているのだ。如何様な処分が下されるのだろうかと考えると身が震える。
私の事を蹴り上げた馬は、殿下の愛馬になるべくして連れてこられたばかりの子だという。慣れない環境に放り込まれたばかりで怯えていたのだろう。その上後ろから興奮した人間が近寄ってきたとなれば、思わず蹴り上げてしまうのは仕方ない事で、これはもう不幸な事故でしかない。
「いや……それは」
殿下が困ったように言いよどむので、私はやや強引に話を進める。
「私が突然後ろから近づいてしまった事がいけないのですから、あの子に罪はありませんわ」
「それでも君を傷付けた事には変わりはないよ」
痛々しい物を見るような殿下の目線が私の額に向いた。今は包帯を巻かれていて見えないけれど殿下は傷を負った現場を目撃しているし、きっとこの包帯の下には生々しい傷があるのだろう。
「ですから私が許します。あの子を許すことができるのは当事者である私しかいないでしょう?」
懇願するように言葉を重ねる。その馬は王族の愛馬となるべく選ばれたとあって、黒い毛並みの美しい馬だった。そして、その馬がやってきたという話をしていた時の殿下の嬉しそうな表情も私はきちんと覚えている。
だからこそ、その馬に会ってみたいと願ったのだし、殿下の大切な馬に会わせて頂いた事がとても嬉しくて私もすっかりはしゃいでしまったのだ。
「君がそこまで言うのであれば……いや、しかし……」
「お願いします、殿下。私のせいであの子に何かある方が辛いですから」
殿下が全てを言い切る前に私は微笑んでその言葉を告げた。
この怪我はあくまで自己責任でしかない。私からしてみたらそれであの馬が咎められることはどうしても避けねばいけない事態だった。
「わかった。改めて躾は必要だろうが、処分はしないよう取り計らうよ」
「ありがとうございます。よかったわ、あの子は殿下の大切な馬ですものね」
よし、これでこの件に関する後処理は十分だろう。
殿下に怪我は無かったようだし、馬の処分も免れた。言うことなしだ。
すっきりした気持ちで顔を上げると、殿下が何かを考えるように私をじっと見つめていることに気が付く。
「ねぇ、エイミー嬢。今度は私からの願いを聞いて貰っても良いかな?」
「ええ。何でしょうか?」
「エイミー・シュタットフェルト伯爵令嬢。どうか私と婚約してほしい」
殿下は腰掛けていた椅子から降りベッドの傍らに跪くと、恭しく私の手を取りながらそんな言葉を口にした。
今後の展開のために主人公の爵位を変更しました。




