雨の日と月曜日は
男が刑務所に入ってから数年が過ぎていた。
もう外を見ることもできず、自由のない縛られた生活に、最初こそ辛かったものの、慣れてしまえばどうということはなかった。
起床、片付け、朝食、作業…決まりきった単純な一日をただこなしていくばかり。繰り返される毎日にあまりものを考えなくなり、世間のことも忘れ、思い出しもしない。
しかし、男にとって雨の日だけは特別だった。
雨の日の夜、独房で目を閉じていると、自然と思い出されてくるのだ。
あれはすべてが偶然だった。
最初は、土砂降りの雨が朝から降り続くある日の夕方だった。
初夏だというのに、ずいぶんと薄暗かったのを覚えている。
ひとりの少女が駐車場で遊んでいるのを偶然に見つけた。赤い雨合羽を着て、池のような水溜りのまわりを楽しそうに飛び跳ねている。
ひとりきりだった。
あたりには誰もいない。
激しい雨音がまわりの音をかき消している。
男はそっと少女に近づいて優しく声を掛けた。話がしたかった、ただそれだけなのだ。
しかし、少女が自分のほうを振り向いたかと思うと、その顔からすぐに笑顔が消えた。拒否されたと思った。だから、逃げようとする少女を捕まえて首を絞めた。勤務先の工場で使っていた軍手がぐっしょりと雨に濡れて、ひどく不快だったことを覚えている。
ただの、偶然の出来事だった。
そもそも、男にとっての雨の日の記憶の始まりは、ずいぶんと昔にまでさかのぼる。
あれは小学校に上がったばかりの、七歳の誕生日だった。季節は秋で、外は連日、冷たい長雨が降り続いていた。
きっかけは一体何だったのか。飯が遅いかまずいか、そのどちらかだっただろうか。それとも両方か。今となってはどうでいいことだが、きっと取るに足らない些細なきっかけだったのだろう。
父親が不意に思い出しように母親を殴りつけたのと、少年だった男がバースデーケーキのろうそくを吹き消したのとはほぼ同時だった。
あの、ガラスの割れる悲劇的な音と甲高い女の悲鳴。ゾッとするような瞬間。男はさっとテーブルの下に潜り込んで息を潜めた。すっかり身に付いていた習慣だったので、その動きは実に素早かったにちがいない。粗末なキッチンが完全に真っ暗になる前に、無事隠れ家に入れてよかった。さもないと、男も父親の正体のわからない怒りの渦に巻き込まれていたはずだから。
暗闇に目が慣れるまでは音だけが頼りだった。だから、実際のところはどういった行為が行われていたのかはわからない。ただ、
ごっ
とか、
がんっ
といった鈍く短い音だけが記憶にある。やめてとか、痛いとかいった声は何もしなかった。どちらも無言だった。
男はその間ずっと、自分のバースデーケーキのことだけを考えた。淡く黄色いスポンジの上に塗られた真っ白い生クリームと、等間隔に載せられた赤いいちご。ひときれをとても大きく切ってもらおう。それこそ、全体の三分の一くらいの大きさでもいい。それで切ってもらったら、一体どこから食べようか。先端か後ろか。それとも、上に載ったいちごからか。何にしろ、とてもおいしいにちがいないのだ。
キッチンの明かりは、すべてが終わってから父親が自らつけたようだった。明かりをつけ終えると、父はのっそりとキッチンを出ていって隣の和室に寝転がり、そうかと思うと、一分もしないうちに大きないびきを熟睡してしまった。
それでも、男はしばらくテーブルの下に隠れたままだった。怖いというよりは嬉しい気持ちが強かった。父の眠っているこの至福の瞬間を満喫しようとしていたのだ。
母親はというと、このときもただ黙ってキッチンの床に転がっているだけだった。母もこの至福の時を楽しんでいる。そう思った。正体のわからない嵐が過ぎ去ったあと、ほんの一瞬だけ訪れる静寂。しかし、それもしばらく経つと、次はいつ嵐がやって来るのかと怯えて過ごす時間に変わってしまう。
ああ、皿だ。あのとき、父は自分に出された皿が気に入らないと言って怒り出したのだ。
男の、一番古い記憶にある雨の日のきっかけは、一枚の皿だった。
たった一枚の、何の変哲もないクリーム色の皿。
あの少女とも、何の変哲もない偶然の出会いだった。あの日、自分は何も少女を探してうろついていたわけではない。それがまさかあんなことになるなんて思いもしなかった。
数日後に少女が発見されたとき、確か新聞やテレビでも大きく報道されていた記憶がある。いずれ大勢の警察官が、自分のアパートの安っぽいドアをノックしに来るだろうと考えて、男はすっかり怯えきっていた。しかし、とうとう誰も来ないまま、報道はやがて下火になり、飽きられて、それきりあっさりと終わった。
男はそれから半年後に勤めていた工場をやめ、縁のない遠くの県に引っ越した。
一応、念のために。
次のときにも雨が降っていただろうか。
そう、おそらくは。
引きずって歩く少女の死体がぬかるみのおかげで楽に運べた。
二人目の少女は田舎の林道脇で見つけた。下校途中だった。
少女が友達と別れて十分な時間が経った頃、後ろから足をすくって転がした。突然の出来事だったに違いないが、少女はすぐに金切り声で泣き叫びはじめた。男はおろおろと焦り、黙らせようと頬を二、三回ぶった。それでも止まないのでさらにぶった。そしてまたぶつ。
何度か繰り返したところで少女はぐったりとおとなしくなった。真新しい厚めの軍手をしていたにも関わらず、右手が腫れているのが感じられた。だから少女の死体は左手で運んだ。利き手ではなかったのに運びやすかったのは、偶然にも雨が降っていたおかげだった。
ここまで思い出したところで、男はいつも眉根を寄せる。
最後の少女は実に厄介だったのだ。
人気のない市営住宅の廊下で、偶然にもその少女と出会った。
少女は狡猾で、男をだまそうとしていた。薄く頬紅を付けて唇は燃えるように真っ赤。それはもう男にとって少女とは呼べない年代だった。しかし、ランドセルを背負ったうしろ姿は小柄で、男はつい声を掛けてしまったのだ。今度は振り向いて笑顔が消えることはなかった。その手のことに、少女はもうすっかり慣れていたのにちがいない。
だからだろうか。男は無性に腹が立って仕方がなかった。少女は予想外に力強く、最後まで抵抗を続けたので、いつもの軍手をはめた両手で殴りに殴った。ふと気が付くと、少女の顔は潰れ、誰か他人の顔を無理やりくっつけたように腫れて上がっていた。
確かその日は霧雨だったように思う。
とても静かな細かい雨で、何も押し流してくれそうにはなかった。
男はそこまで思い出してからようやく眠りにつく。
雨の日はいつもそうだ。
ある夏の日の朝。
とうとう、男の独房にふたりの刑務官がやって来た。
そう、男にとって、これが最後の朝になるのだ。
「出ろ」
独房から連れ出され、長く暗い廊下を歩かされる。無愛想な刑務官は、そのどちらもまったく口をきかない。がっちりとつかまれた腕が痛む。
永遠に続くかと思われた廊下がようやく終わり、大げさなゲートをひとつくぐった。受付のようなところで不意に立ち止まる。ふたりの看守はつかんでいた腕を放し、ついでに男の手錠も外した。
「さあ、これがあんたの所持品だよ」
薄暗い穴蔵へと戻っていく看守を見送っていると、受付の男に声を掛けられた。渡されたのは、ビニール袋に入った擦り切れた革のベルトと、銀色の地味な腕時計。
数年前、日雇いの仕事の所持金が底を尽き、偶然空き巣に入ったところを逮捕されたときに身に付けていたものだと、ぼんやりと思い出す。
「もうこれを最後に二度と戻ってくるんじゃないよ。世の中にはね、あんたみたいな人間が何人もいるんだ。みんな根はいいやつなのに、ちょっと魔が差してやっちまうのさ。あんたも、空き巣なんてけちなことはきっぱりとやめちまうことだね」
男はわずかな所持品を受け取って、お世話になりましたと深々と頭を下げた。
「まあ暑いから気を付けてな。明日からはしばらく雨になるらしいがね」
受付の男が言った。
外に出ようと背を向けても、まだしゃべり続けている。
「わたしは嫌いだよ、雨の日は。なんだかそんな古い歌があったなあ。ほら、あれだよ。雨の日と月曜日はってやつ。あのかわいそうな兄妹の…」
男は黙って頭を下げて受付を出た。
調子の外れた鼻歌が、背後から男を追ってくる。
灰色の建物の外は、見事な快晴だった。
遠くの方に大きな入道雲がくっきりと浮かんでいるのが見える。
男は空のまぶしさに思わず目を細めた。明日から天気が崩れるとはとても思えない。
しばらく立ち止まって、男は雲ひとつない夏の空を見上げた。
そうしてやがて、錆びた鉄の門からゆっくりと外へ出て行った。