潔癖
僕の部屋に着くと、変わらずレティシアは静かに寝息を立てていた。
「……失礼します」
クロエさんは一礼してからレティシアを抱きかかえる。いくらレティシアが小柄とはいえ16歳ともなればそう軽くはないはずだけど、本当に軽々といった感じだ。
「それではコムラ様、おやすみなさいませ」
「あ、うん、おやすみなさい」
僕もさっさと寝て明日に備えよう。部屋のシャワーを浴びて髪を乾かしてから、綺麗にベッドメイクされたベッドに入る。
寮のベッドとは大違いだな、なんてことを考えていたら、すぐに眠気がやってきた。
翌朝、普段通り6時前に目が覚める。枕が変わっても普通に眠れるのは僕の長所かも知れない。
僕は顔を洗って、ジャージに着替えて屋敷を出ると、日課のジョギングを始めた。
「それにしても広い庭だな……」
散歩道みたいなものがちゃんと舗装されていて、そこを何周かした。いつもどおり無理をしないペースで5kmを20分と少し。演劇のための体力作りとして始めて、もう5年くらい僕はほぼ毎日続けている。
部屋に戻ってシャワーを浴びて、洋服に着替えると、朝の準備は終わった。
「今日はマルシェに行くわよ」
「マルシェ?」
朝食中に、レティシアはそんなことを言い出した。
マルシェはフランス語で市場のことを指す。僕も寮で暮らしていたときは主に食材を求めて立ち寄ったことが何度もある。
「何か欲しいモノがあるの?」
「別にないわ。あってもクロエに頼めばいいし」
「じゃあどうしてマルシェに?」
「レッスンの一環よ。きっとタクトにはいい刺激になるわ」
「……?」
良く分からないけど、マルシェには昼食を兼ねて昼ごろに向かうことになった。
それまではまた台本を読んで、レティシアの指導を受ける。上手く演じられたと思えばレティシアには「大げさすぎる」と言われるなど、やはり細かいセリフのニュアンスで躓くことが多い。
「タクト、これは喜劇だから観客を笑わせるときはそれくらい大げさでいいわ。でも、ずっとそれだと本当に大切なところが埋もれてしまうの。演技にメリハリをつけて、抑えるところはもっと抑えるように――」
レティシアの指摘を受けて、再度演じなおす。完璧には程遠いが、ある程度の出来になったら次に進む。とりあえず一度最後まで通してしまって、流れを掴んでからの方が指導の意味も分かりやすいだろうと、レティシアは言っていた。
「……それじゃあ少し休憩にしましょうか」
「そうだね……そうだレティシア、せっかくだから休憩の間、レティシアのことを教えてほしい」
「……そういえばタクトにはまだ何も説明してなかったわね」
レティシアは今思い出したといった雰囲気だ。
「タクトはベルクール家のことも知らないわよね?」
「うん、全く」
「演劇を中心に古くから芸術方面に影響力があった家で、記録によるとフランス革命よりも前から続いているらしいわ」
「……何というか、想像以上に凄い家なんだね」
下手すれば教科書に名前が出てきてもおかしくないレベルの名家だ。
「まあそういう家だから、歴史ある劇場を一つ所有しているの。それが今度200周年を迎えるベルクール劇場で、今回の公演はそれを記念して私が企画したものよ」
「なるほど……そこまでは分かった。それで、どうしてそれを企画したのがレティシアなの? 親とか、他の家族は?」
「単純に、私が一番演劇に精通しているからよ。私は末っ子で兄と姉が一人ずついるけど、兄は絵画が専門で、姉は音楽。父は私に演劇を仕込んだだけあって多少は心得があるけど、ちょうど仕事が忙しい時期と被ってしまったの。ちなみに母はパティシエールで、そっちも新しいお菓子ブランドの店舗を増やすとかで忙しいみたい。まあ母は演劇に関しては素人と大差ないけど」
いくら忙しくても、手が空いているからという理由だけでレティシアに任せたりはしないだろう。つまりレティシアには公演を成功させるのに充分な実力があると、周囲に認められているということだ。
「さて、休憩はこれくらいにして、レッスンを再開しましょうか。今クロエが車を手配してくれているから、そっちの準備が出来るまではしっかりやるわよ」
「ああ、うん。お願いします」
まだまだ知りたいことはたくさんあったけれど、それはまたの機会に訊くことにした。
それから一時間程度またレッスンを続けて、クロエさんが車の準備が出来たと伝えにきたので僕たちはマルシェに向かった。
「マルシェで何をするの」
「まずは食事ね。そのあとは適当な人の集まりを見つけて会話に混ざりましょう」
「……? それは何か意味があるの?」
「今は分からないかも知れないけど、大事なことなのよ」
うん、分からない。でもレティシアがそう言うなら、僕は従うだけだ。
マルシェにつくと、僕たちはさっそくオープンカフェのような店で食事をした。庶民的な店だけれど、どうやらレティシアの行きつけらしい。
「こういう店にもレティシアは来るんだ?」
「そうね。兄には舌が子供だって馬鹿にされるけど、好きなんだから仕方ないじゃない。タクトもそう思うでしょう?」
「うん。レティシアみたいに、好きなものは好きだって、ちゃんと言うべきだと思う」
名家に生まれたお金持ちで、演劇に関してもとんでもない才能を持っていて、それこそ住む世界が違うとさえ思えるレティシア。
そんな彼女がこうして庶民的な味が好きだと言うことに、僕はなんとなく親近感を覚えた。
「タクト、良いこと言うじゃない! そうよね、好きなものは好きって言わないとダメよね。さすがタクト、私がビビッと来ただけあるわ」
そんなに褒められるようなことだろうかと、僕は少し疑問に思わなくもなかったけれど、レティシアが満足げだったので言葉を挟むのは止めておいた。
「そうだ! タクトは、何が好き?」
「何がって、それはどういう意味で?」
「別に、普通の意味よ。タクトの好きなものを教えてって話」
「僕の好きなもの……」
「あ、演劇は無しね。分かり切ってるから」
「そうか……じゃあ、えっと………………」
「……何、本当に演劇以外思いつかないの?」
「いや、そういう訳じゃないけど……食べ物とか、音楽とか、映画とか、好きなものは色々あるんだけど……」
「けど?」
「それらが無くなったとしても、僕は大して困らないというか……すぐに別の物で代替出来てしまう気がするんだ」
「……本当にそれでなければダメだっていう、そういう好きじゃないってことね」
「そう。だから何と言うか、本当にそういう代替不可能なくらい好きだと言っている人がいるなら、僕が軽い気持ちで好きだって言ってしまうのは、もしかしたら失礼なんじゃないかって思うんだ」
「ふーん……でも、タクトってそういう感じよね。変に真面目というか、言うなれば潔癖って感じ」
「潔癖?」
「そう。自分の甘えを許さない潔癖さ。例えば、結果が伴っていないなら頑張ったなんて言ってはいけない、みたいなことを考えていそうよね」
ずばりと言い当てられてしまう。まさしくそれは僕が普段から考えていることだった。
「代替不可能じゃないから好きだと言ってはいけない。結果が伴わないから頑張ったとは言ってはいけない。……タクトはそうやって自分の理性で線引きして、その基準に従って生きているのね?」
「ああ、多分そうだと思う」
「ふーん……モニカそっくりね。だからモニカは、タクトにきつく当たるわけか」
「モニカ?」
「そう。タクトがこんなレベルでプロを名乗ってはいけないと考えるなら、モニカはプロである以上こんなレベルでいてはいけないと考える。言っていることは違うけど、本質的に考え方は同じでしょう?」
もちろん役者としてのキャリアは全然違うけれど、それは結果であって、生き方や考え方という過程の面では、確かに僕とモニカは良く似ているのかもしれない。
まあモニカからしたら、未だに何の実績もない僕は自分に甘えまくっているようにしか見えないだろうし、だからこそ許せないのだろうけど。
「何となくだけど、どうして私がタクトにビビッと来たのか、分かった気がするわ」
「え、何で?」
「ふふ、教えてあげなーい!」
僕は気になったので理由を尋ねたけれど、レティシアはそう言っていたずらっぽく笑いながら、はぐらかすのだった。