あの日の憧憬
僕は結局、一番気になっていたことを口に出した。
「ビビッと来たから、って言わなかったかしら?」
「確かに言われた。でも、本当にそれだけ?」
「…………それだけよ」
「嘘だよね」
「うん!」
レティシアは自分にとって不都合なことでも、自信満々に胸を張って言うことがたまにある。これはそのパターンだ。
「……そうね。しいて言うなら、タクトの目かしら」
「目?」
「そう。たった一つの理想だけを追い求めているかのような……真っ直ぐで、正直で、愚かで、馬鹿。タクトはあのとき、そういう目をしていたわ」
「………………」
「そして演劇の勉強のためにわざわざ留学までしてきたって聞いたときに、思ったの。もしかしたらタクトは、私と同じものを追いかけているんじゃないか、って」
「同じもの……?」
「いつの日か見た、ただのちっぽけな舞台よ。けどそのちっぽけな舞台には、どんなに努力しても絶対に追い付けないし、それこそ一生かかっても届かない。そういう舞台なの」
レティシアのフランス語の表現は難解だった。僕は何とか頭の中で言葉を咀嚼して理解する。
「つまり、子供の頃に見た舞台がきっかけで気付けばこんなところに来てしまった愚直で馬鹿正直な僕と、レティシアが似ているってこと?」
「そういうことよ。私が見たのは小さな町劇場で無名の劇団が演じた喜劇。今思えば大したことのない内容の舞台だったけど、あのときはどうしてかツボに入ってしまって、お腹をかかえて笑ってしまったの。後でお父様に淑女らしくないと怒られたわ。けれど、後にも先にも、私があんなに笑った舞台はないの」
僕が子供の頃に見たのも、レティシアと同じようなものだった。あの日見た演劇から受けた衝撃で、僕の人生は大きく変わってしまった。
そんな風に人の心を大きく動かすような、誰かの人生を変えてしまえるような、そんな演技が出来る役者になりたいと、だから僕は思ったのだ。
「僕が見たのは、小さな劇場を所せましと駆けまわるスラップスティックコメディだった。けど途中でトラブルがあって、役者の一人が走っているときにセットにつまずいて舞台の床に顔面を強打したんだ。思わず別の役者の人が『大丈夫か!?』って声をかけちゃって」
「うん、それで?」
「そうしたら転倒した役者の方が鼻血を流しながら立ちあがって『大丈夫だ!』って言うから『いや鼻血出てるし!』『そういう体質なんだ』『そんな体質あるか!』って、アドリブで全部繋げて笑いに変えたのを見て、子供ながらに役者って凄いなって思ったんだ」
確かにそういう意味では、僕は思い出の中の舞台をきっかけに役者を目指して、それ以来ずっとあのときの舞台を理想として追い求めている。
「でも、子供の頃に見た舞台がきっかけで役者を目指すなんて、別に珍しくも何ともないよくある話だと思うけど」
「そうね。きっかけとしてはよくある話。けど、普通は役者としての活動を通じて様々な体験を重ねて、もっとレベルの高い演技や舞台に触れていくうちに、理想も目標もどんどんと更新されていくものよ」
確かにレティシアの言うとおりかも知れない。あのとき見た無名の劇団の舞台なんて、決してレベルの高いものじゃない。もしかしたら今の僕の方があの劇団の役者たちよりもレベルが高いということだって充分にありうる……いや、確実にそうだ。
つまり僕は、とっくの昔に追い付いて追い越したものを、いまだに追いかけ続けているんだ。
「そう。その歪さこそが、タクトの演技における最大のボトルネックなのよ」
彼女ははっきりと、今の僕が抱える問題点を指摘した。そしてそれは僕の実感とも一致する。
演技力は向上しているはずなのに、一向に目標としているものに近づけないという焦燥感。何が悪いのか分からないまま、努力の方向性を見失い、それでも僕はただひたすらに光無き荒野を歩き続けた。
けれど僕はようやく、このパリという地で光を見つけたのかも知れない。
「……レティシアは」
「うん?」
「レティシアは、僕と同じだったんだよね?」
「違うわ、今も同じなのよ。私も未だに、タクトと同じ歪さを抱えているの」
レティシアはそう答えた。
それなら彼女はどうやってその歪さを抱えたまま超一流に上り詰めたのかと、そう尋ねたくなる気持ちはある。でもそれは、きっと言葉で聞いても意味のないことなんだと僕は思った。
それに今の僕にとっては、この歪さを、あの日の憧憬を捨てなくてもいいのだと、そのことが分かっただけでも充分だった。
「……少し話し過ぎたわね。さて、それじゃあレッスンを始めましょうか」
「ああ、そうだね」
それから一時間ほど、レティシアの指導でレッスンを行った。
劇団の練習でも思ったけれど、レティシアの洞察力は本当に凄い。どういった意図でこちらがそう演じたのかを見抜いた上で、的確に修正するように指摘してくる。
ただそんな彼女も、今は椅子に座りながら寝息を立てていた。
さすがに今日一日ずっと練習で大きな声を出し続けていたので、疲れてしまったみたいだ。いやまあ、もう日付も変わりそうな時間だから無理もないか。疲れていなくても普通に寝る時間だ。
まあさすがにこのままにはしておけないので、声をかけて起こすことにした。
「レティシア、今日はもう終わりにしようか。部屋には帰れるよね?」
「んー……無理」
「いや無理って言われても」
「……すぅ…………」
レティシアはそのまま再度寝息を立て始めた。えっと、どうしよう。クロエさんでも呼んできたらいいんだろうか?
「といってもどこにいるか分からない人を、この広い屋敷で探すのはなぁ」
しかもこの屋敷の構造も全く把握していないだけに、さすがに気が進まない。
かといって自分でレティシアを運ぶわけにもいかない。そもそもレティシアの部屋だって分からないし。
「クロエさんを探しに行ってみるしかないか……」
僕は部屋にあったタオルケットをレティシアにかけてから、とりあえずクロエさんを探しに廊下へ出てみることにした。
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