いきなり始まるお屋敷生活
前回週末に更新すると書いたのに出来ませんでした、ごめんなさい。
劇団の練習が終わって時計を確認すると、もう午後9時を回っていた。練習に没頭していて完全に時間の感覚が無くなっていたので、僕は少し驚く。
まあよくよく考えれば夕食として用意されていた弁当も食べたし、その後もずっと練習していたのだからこれくらいの時間になっているのは当然か。
何にせよ、急いで帰らないと明日に響きそうだ。
「それじゃあ僕はこのへんで」
そういって僕が学校の寮へ帰ろうとすると、不意にレティシアに呼び止められる。
「ちょっとタクト、どこに帰るつもり?」
「どこって、寮だけど」
「寮に戻ったって、貴方の部屋はもうないわよ」
……え?
「タクトは今日からベルクール家の屋敷に住むの。学校にも話は通したからもう明日以降通う必要はないわ。寮の部屋にあった荷物は全部屋敷に運び込んであるから、安心してね」
「安心って……え、本当に?」
「もちろん! だってタクトは、これから私の指導を全力で受けなければならないのに、今まで通り学校に通っている余裕なんてないでしょう?」
「それは、確かにそうだけど……」
「事後報告になったのは謝るわ、ごめんなさい……けど、あと三週間しかない。これしか手段がないということは理解してほしいの。今は一晩も無駄に出来ないから」
三週間。一般的には三週間あれば劇団は一つの演劇を、公演出来るクオリティに仕上げることが出来るとされる。
僕が日本で所属している劇団も、一つの公演のための練習期間は三週間前後だ。記憶の限りでは長くても一カ月という期間で仕上げていた。
けれど、今ここにいる僕には根本的な部分で実力が不足している。その実力を底上げしつつ、台本を覚えて演劇のクオリティを上げるというのに、三週間は短すぎる。
それは僕自身が一番理解していることだ。そしてレティシアがこれしか手段がないというなら、本当にそうなのだろう。
「……分かった。元々は僕の実力不足が全て悪いんだし、僕はレティシアに従うよ」
「もちろん、タクトに損はさせないわ。貴方があの学校で得られたものより、ずっと大きなものを私が貴方に与えてあげる」
レティシアはそう言って自信満々に笑った。その笑顔を見て何となく僕は、レティシアに出会えたことは幸運だったのかもしれないと感じた。まあそれは、まだ分からないことだけど。
「向こうの通りに車を呼んであるわ、行きましょう」
レティシアに言われてついていくと、すぐ大通りに出た。そこには予想通りというか、白いリムジンが止まっている。
「さあ、乗って」
「…………」
こんなことで驚いていては、きっと身が持たないに違いない。僕は心を無にしてただレティシアの指示に従うことにした。
それにしても、この車は全く揺れない。騒音もほとんどないし、何というか走っているという感じがしなくて逆に不安になってしまう感じがあった。
きっと屋敷についたらもっと凄いものが待っているに違いない。それこそ執事やメイドさんが普通にいて、庭の敷地は東京ドーム10個分みたいな、僕がこれから向かうのはきっとそういう世界なんだ。
「おかえりなさいませ、レティシア様」
……本当にいたよ、メイドさん。
その人はグレーの瞳で、こげ茶色の長い髪を後ろで綺麗にまとめていた。よく見るとモニカが衣装として着ていたのとよく似たデザインのメイド服を着ている。というよりあの衣装はこのメイド服を参考にしたのだろう。
「ただいま、クロエ。話は聞いていると思うけど、こっちはタクト。三週間ほどうちで預かるから、客人として丁重にお願いね」
「承りました。コムラ様のお荷物はすでにお部屋の方に運んであります。大丈夫だとは思いますが、運び漏れ等がないか、後ほどご確認ください」
「えっと、ありがとうございます」
僕がお礼を言うと、クロエさんは綺麗なお辞儀をした。年齢は20代前半くらいだと思うけど落ち着いていて、フランス語も丁寧で聞きとりやすい。何よりその立ち振る舞いから、かなり仕事が出来る人なのだろうという印象を受ける。
「それじゃあタクト、荷物の整理とか一通り終わったら、台本でも読みながら待っていてくれるかしら? 準備が出来たら私も部屋にいくから」
「分かった」
と、つい返事をしてしまったけれど、もう午後10時を回っているというのに、レティシアはこれから僕に演技指導をするつもりなのか。
「お部屋へご案内いたします」
クロエさんがそう言ったので、僕はレティシアと分かれてクロエさんに案内されて客室へと向かった。通された部屋は僕が住んでいた寮の部屋の倍以上広く、部屋の中にシャワーとトイレまでついていた。まるでホテルだ。
「それでは何かありましたらお呼びください。失礼します」
「う、うん、ありがとう……」
そうして部屋のドアが閉まると、僕は大きく息を吐いた。
「はぁー……緊張した。まさか現代に本物のメイドさんがいるなんて」
まあそんなことを言い出したらリムジンに乗せられた段階から緊張の連続だったけど。何というか本当に、レティシアは僕とは住む世界の違う人間なのだと痛感させられる。
「金持ちで、演技が出来て、脚本が書けて、舞台演出まで出来る……きっとまだ他にも色々と出来ることがあるんだろうな」
レティシア・ベルクール。
僕は彼女のことをあまり良く知らない。年齢は本人から僕の一つ年下だと聞いたけど、本当にそれくらいだ。練習に必死で、無駄話をしている余裕もなかった。
僕はあまり多くない荷物を整理し終えると、今日貰ったばかりの台本を取りだす。当然だけど中身は全部フランス語だ。
「会話なら何とかなるんだけどなぁ……」
読み書きは本当に最低限だけしか勉強していない。買い物くらいなら困らないけど、小説や台本のようなものを不自由なく読めるレベルにはほど遠い。
まあそんなことを嘆いても仕方ないので、僕は台本を開いて読み始める。
台本の冒頭を簡単に要約すると、とある貴族の落胤として生まれた主人公の少年は、母親と二人で庶民として暮らしていた。少年が10歳になる頃母親が亡くなり、少年は孤児院に引き取られる。
それから5年の月日が流れた頃、少年の前に一人の少女が現れる。少年の妹を名乗る少女は、父が死んだので少年を迎えに来たのだと言う。
そうして異母妹に連れられて訪れたのは、正式に父の後を継いだのに全くやる気のない放浪癖のある異母兄や、何故か屋敷の誰よりも偉そうなメイドなど、個性的な人間ばかりが住む奇妙な貴族の屋敷だった。
主人公の少年は孤児院育ちというシリアスな設定だけれど、序盤を読む限りにおいてはこの脚本は喜劇として作られていた。
「……面白い」
気付くと僕は台本の世界に引き込まれるように続きを読み進めていた。
何というか、セリフ回し一つにしてもテンポや間というものが、台本を読んでいるだけで自然に理解出来る台本だった。
ここで間を取って、ここのセリフで笑いを取る。そのためにはそれまでの演技でこういう工夫をして観客の意識を別方向に逸らして――。
僕はそんな風に、この台本をどう演じるべきか、どう演じたいか。いつの間にかそんなことばかりを考えていた。
こんな台本には、今まで一度として僕は出会ったことがない。
「どう、私の台本?」
「……まだ序盤しか読めてないけど、凄く面白い」
「もっと褒めていいわよ」
「控えめに言って最高」
「でしょ! 私の脚本家人生で最高の出来なのよこれ!」
「……というかレティシア、いつの間に部屋に?」
「何度もノックしたけど返事がなかったから入ってきたの。どうせ私の台本が面白すぎて聞こえてないんだと思ったから」
大正解だった。
それにしてもレティシアは凄い自信だった。一般的に自分の感情に素直で、自己主張が強いとされるフランス人でも、ここまでハッキリとしているのは珍しいと思う。
レティシアの場合はその自信を裏付けるだけの確かな実力があって、同時にそれを正しく自覚しているということなのだろうけど。
「どこまで読んだの……ふーん、読み書きは苦手って言ってたけど、案外読めてるわね」
「ねえレティシア、訊きたいことがあるんだけど」
「それは、たくさん?」
「うん」
「じゃあ時間がないから駄目。一つだけなら答えてあげる」
「一つだけ…………」
僕はそう言われて3秒考える。
「……どうして僕を選んだの?」
今週は更新頑張ります。(当社比)