忠告
その日の教室の空気は異様だった。
毎朝毎朝耳障りな声を上げているクラスメイトも沈黙。教室は完全に無音状態だった。
当然藍原はいない。お陰で由人の私物には手を付けられていなかった。だが、もう一人のそこにいるはずがない、というよりいてはいけない人物がいた。
「陣内君……なんで……いるんだよ……」
由人は思わず悲鳴にも似た、だがか細く、今にも消え入りそうな声を漏らした。
由人が登校したことに気付いたようで、何やら熱心に文字を書きつけていた手を止め、つかつかと由人へ向かってきた。
由人は彼に責められる覚悟を決めた。本人が気を失っていたとしても、誰かが先日のことを伝える可能性は十分にあった。どんな罵声を浴びせられようとも、それは至極当然の報いである、と甘んじて受けるつもりだったが――。
「ごめんなさい!]
陣内のその言葉に、身体が硬直する。
「俺が勝手な事したせいで成宮君にまで迷惑がかかるかもしれないっていうのに、何も考えずに突っ込んで行って……挙句の果てにはこのざまだ」
痛めているであろう腰を今にも折れそうなほどに曲げたまま、陣内は言う。
「迷惑だなんて、そんな、君は僕を、たっ助けようとして、それで……」
上手く言葉が出てこない。吃音症にでも罹ってしまったかのよ
うだった。
「いや、俺が悪かったんだよ。もし藍原が怒って、津田や清水と一緒に君にもっと直接的な暴力を行使する可能性も高かったのに……。一時の感情に流された俺が駄目だった。そんなこと以外で君を少しでも助けられる方法だって、いくらでもあったはずなんだ……」
陣内は頭を垂れたまままくしたてる。津田と清水というのは恐らくコバンザメの二人だろう。
「……僕には、君にそんなことを言ってもらえる資格はないんだ」
由人は呟く。陣内はその呟きを聞き取れなかったようで、「え?」と問い直す。だが、由人にはまだ真相を知らない彼に自分の口から罪を告げるだけの勇気は持てなかった。
「それより、怪我はどうしたの?に、入院してるはずじゃ……」
「休んでた分の授業の遅れは取り戻さなくちゃいけないからね……。こっそり抜け出してきちゃったんだよ」
ぎょっとした。あの日も無理やり授業を再開させようとしていたが、まさかその執念がここまでとは思ってもみなかったのだ。
さっきまでは気付かなかったが、よく見ると彼の机にはおびただしい数のノートと教科書が広げてある。欠席していた授業の板書を書き写しているのだろうか。勉強は大切だが、怪我を押して、あまつさえ病院を抜けだしてまでするほどのこととは由人には到底思えなかった。
「書き写し終わったら今日のところは病院に戻るから、心配はご無用だ」
ようやく陣内は顔を上げ、問題ない、という風に微笑んでみせた。
その日、陣内は小川にまたしても無茶を言い、結局一限目の授業を受けてから病院に強制送還された。今後はそう容易くは抜け出せはしないだろう。
「おい、成宮!」
水曜日、その日は冷たい雨の降る日だった。放課後の通学路、数本の傘が流れるなかで誰かが由人を呼び止めた。
由人に声をかけたのは、藍原と共によく見る顔ぶれのうちのひとりだった。
「君は……津田君か?」
「清水だ。あんな奴と一緒にするな」
少年はそう言って由人を睨みつける。どうやら片割れのもう一人とは利害関係が一致しているだけらしい。だが、先日の藍原不在時の様子から察するにお互いに寄生先を無くさないためには協力は厭わないと考えているようだ。
この清水という生徒も藍原と同様に進学後に由人に何かと嫌がらせをするようになった一人だ。しかし、それは二年生に進級したころから始まったもので、藍原にまとわりつく為にしていることなのか、他の二人より比較的良心的な嫌がらせをすることが多かった。尤も、由人からしてみればそんなことは知ったことではないのは言うまでもないが。
「お前、一昨日藍原さんが陣内とどっかに行ってたのは知ってるだろ?」
由人は頷く。清水の言葉から敵愾心は感じられない。どこか高慢さは感じられるが、それは時折由人に話しかけるすべての生徒に言えることだった。
「成宮ぁ、お前、何しに教室出て行ったんだ?」
由人の肩がびくりと僅かに震える。
こいつは気付いていた。おろおろするだけかと思っていたが、やはり見られていたのだ。
「僕は、トイレに……」
「嘘は吐くな。陣内と同じ目に遭いたいか?」
低く唸るように言った。
「……二人が見えたから、陣内君を助けに行った」
俯きながらそう白状した。
「それで、陣内に何かしてやったのか?」
何も言えなかった。自分の弱さの証明なんてしたくなかったのだ。
「何も出来なかったんだろ。だから授業のあとに戻ってきて、ブルブル震えてたってことだろ」
またしても黙り込む由人を見て、清水は確信したようだった。そして嘲るように言う。
「情けない奴。お前を庇おうとした奴を自分かわいさに見殺しにしたんだろ。助けたりしたら今度からは自分が殴られるって思って逃げたんだよ。本物のチキンだぜ」
「違う!」
思わず叫んでいた。この男の言うことが事実で、自分が逃げ出したことは疑いようもないことだった。が、何かが違う。『事実』ではあるが『真実』ではないという思いが由人の中に渦巻いていた。
「何が違うって言うんだ?」
だが、その投げかけに対してこの感情を声として表現できるだけの言葉を由人は持っていなかった。
「……僕を笑うためにわざわざ来たのか?」
目を見て言うことは出来なかった。それは、笑われても仕方がないと知っていたからに他ならなかったからだ。
「馬鹿か、そんなわけないだろ。俺はただ親切に忠告してやりに来ただけだ」
「忠告?」
「ああ、そうだ」
耳を疑った。由人は清水に疑惑の視線を向ける。他の二人に比べればマシとはいえ嫌がらせをするような奴だ。簡単に信用しろというのは到底無理な話だった。
「まあ聞けよ。……成宮、お前藍原さんが戻ってきても余計なことはするなよ?」
「どういう意味だ」
「そのままの意味だよ。俺らに何されても黙ってたみたいにずっと静かにしてろ。そうすればお前はもうターゲットにされなくて済む」
「ターゲットにされなくなる……そんな嘘みたいなことをすんなり信じろって言うのか?」
由人にとってそれは思ってもみない僥倖のはずだったが、長すぎる時が信じる心を由人から既に奪い去ってしまっていた。
「信じないのは勝手だが、出来れば信じてほしい。俺に人を殴る趣味はないからな」
清水が自分を助けるような真似をする人間ではないことを知っているだけに、尚更その言葉が素直に受け取れなかった。
「次に狙われたら殴られることになるってことか。でも、それを僕に伝える意味なんてないんじゃないのか」
「いや、あるね」
由人は未だ猜疑心のこもった視線を投げかけ続ける。
「……正直言うとなあ、俺は藍原さんの威光が欲しいだけなんだよ。
藍原さんのところにいれば少なくとも俺が藍原さんの標的にされることはない。おまけに藍原さんが他のイカレ野郎からも守ってくれるしな。俺はなんとしても藍原さんの傘の中に入ってたいんだよ。だから俺はお前に嫌がらせもするし、あることないこと言いふらすし、藍原さんの命令なら殴りもするだろう。
でも、もしお前が実はジークンドーの達人で、藍原さんをボコボコにできるっていうんなら俺はすぐにでもお前の手下になるだろうな」
「何が言いたいんだ」
「さっき自発的に人を殴る趣味はないって言っただろ。つまり、俺は出来れば嫌がらせも、暴力沙汰も勘弁だってことだ。何もしないで自分が守られるならそれがベストに違いねえ」
それを聞いた途端、由人が清水に向けていた敵意がふっと消えた。どうやら清水もそれに気づいたようで、ふうっと大きく息を吐いた。
「少しは信じてもらえたようだな。いいか、もう一度言うが、余計なことはしてくれるなよ。そうすればまだ俺はお前を殴らずに済む」
「……分かった」
由人は頷く。すると清水は黙って踵を返し、学校の方向へ歩いて行った。どうやら帰り道は反対方向だったようだ。
清水の話を聞いたあの時、由人は自分が彼の忠告を信用できた理由がわからなかった。
だが、それが、鬼畜生の化身のように感じていた清水が、あくまでも自分と同じ人間であるという紛れもない『真実』がようやく理解できたからだと分かったのは、由人がその晩に眠りに就く寸前のことだった。