夢の案内人
由人は白い部屋にいた。いや、それは部屋なのかどうかさえも識別できないほど真っ白な場所だったが、直感的にどこか建物の一室なのだろうと認識していた。
何故自分がこんな場所にいるのかはまるで見当も付かなかったが、ここにいることは何ら不思議なことでもないような気がしていた。
要するに――夢である。
由人には決して実感することはできないが、彼は深い眠りの底にいた。一日と少し前に恩人を見捨て、不死鳥の如く舞い戻ったその真意が全く掴めず、ただただ震えることしかできなかった少年は跡形もなく消え失せていた。いまここにいるのは空っぽの器だけだ。思考能力はゼロに等しく、傀儡のようにひたすら呼吸と拍動を繰り返す程度のまさしく木偶人形である。
そのときだった。真っ白な部屋はブレーカーが落ちたように瞬時に暗闇に包まれた。それと同時に由人の体からも力が抜け落ち、まるでピアノ線が切れたように膝から崩れ落ちる格好で突っ伏し、そのまま気を失った。
次に由人が目を覚ました時、そこはまだ白い部屋だった。だが先程と異なり、部屋全体が眩さを増しており、朝陽かと錯覚させられるほどだった。その原因に由人の目が長い間暗室状態の部屋にあったことが考えられるが、それだけでは説明しようがないほどに部屋は眩しかった。
上体を起こし、周囲を確認しようとする由人に不意に声が降り注いだ。
「やっと起きてくれたのか。死んでしまったのではないかと思っていたところだよ」
降り注ぐ、というのは比喩的な表現などではなく、まさに由人の頭上から聞こえてきたということだ。声は校長のスピーチを校庭に流すような響きを持っていた。とどのつまり、スピーカーのような無機質な音だった。
由人は状況を整理しようと必死に頭を動かした。だが、思考は霧が掛かったようにはっきりせず、彼をますます混乱させる。
「後ろだよ」
由人は振り返る。それは未だかつてないほどの速度で繰り出される渾身の振り向きだった。
「おはよう。成宮由人君」
見たこともない少年が少し離れた場所に座っていた。だが向こうはこちらを知っているようで、余裕と含みのある微笑を浮かべている。
「君は誰だ……?」
由人は依然として上手く働かない頭に鞭を打って尋ねる。
「誰だとは随分なご挨拶じゃないか。でも君の意識がはっきりした状態で話すのは初めてかもしれないね。今までの君は抜け殻のようで、何を言っても生返事ばかりだったし」
少年は可笑しそうにけらけらと笑いながら言う。確かに先程から由人の頭は嘘のように明瞭になっている。それはこの少年を視認した瞬間からのことだった。
「僕の名前はノートと言うんだ。何度も言ってきたことだけど、今度こそしっかり覚えてくれよ」
訝しがる由人などは意に介さないように少年――ノートは続ける。
ノートはすっくと立ち上がり、ゆっくりと由人に歩み寄る。
「ここが何なのか説明してくれないか?」
「そんなことを言っておきながら、君はもう薄々気付いているんじゃないかな」
確証こそなかったものの、ノートの言う通り由人は現実ではない場所にいることはそれとなく勘付いていた。
「ノート君――」
「君は余計だ」
一瞬険しい顔になり言う。
「……じゃあ、ノート、ここは『夢の中』だと思っていいのか」
「ああ、察しが良くて助かるよ」
目の前まで近づいたノートは身長こそ由人と変わらないくらいだったが、少し幼い顔立ちをしていた。由人より一つか二つ年下だろうか。
ノートはとにかく座るように由人に促した。二人は同じ方向を向くようにして座った。
さて、夢である、ということにはさして問題はない。それより気になっているのは――。
「明晰夢ってことなのか?」
話には聞くが、もしそうならば人生初の体験になる。これは確かめておかなくてはならない。
「大枠はそう考えてもらって問題ないよ。ただ、少しばかり違う点もあるけど、君にとってこれはただの夢ということは変わらない」
由人は自分の頬が僅かに紅潮するのを自覚した。素直に喜びから来る興奮を覚えるのはあまりにも久しぶりで、自分でも驚いていたくらいだった。だが、まだ確かめるべきことは残っている。
「じゃあノート、君は夢の中の住人で、現実には存在しない架空の人物なのか?」
「確かに僕は現実には存在し得ないものではあるけど、夢の住人とも少し違うな」
由人はノートに続きを話すよう促す。
「言ってしまえば、僕は夢の案内人。この部屋は君が見るべき夢の前段階のようなもので、まあ病院の待合室を想像すれば大体正解だ」
「夢の……案内人?」
さすがに困惑を隠しきれない。理解しかけた現状が一気に暗礁へ乗り上げる。それも気に留めずにノートは話し続ける。
「由人、君は今まで何度となく夢を見てきた。それはこれから僕が見せる世界での出来事の記憶の断片だったんだよ。眠るたびに君はその世界の人間として生まれては死に、様々なことをそこでで見聞きしている。それが砕けては集まり、時々夢になって記憶の端に現れていた……。理解できるかい?」
明瞭だった頭にはまた靄がかかったようだった。正直、理解が追いついていないが曖昧に首を振ってお茶を濁しておく。
「どうやら分かってはいないみたいだけど……今日は詳しく説明している時間はないからね。先にこれを渡しておくよ」
ノートは懐から取り出した何かを半ば強引に由人に押し付けた。由人の手の中には、美しい琥珀色をした宝石が埋め込まれたペンダントが残された。由人はこれは? という風に目で問いかける。
「それは現実と夢を繋ぐためのカギだ。夢の世界に来たいときにはそいつを首にかけて眠るといい」
「まるで現実にもこれがあるかのような言い方じゃないか」
「それは大丈夫。もうプレゼントしてしまったから心配は無用だよ」
その返答は全く答えになっていないにも関わらず、なんとなく納得できたように由人は感じてしまった。そしてまたなんとなく、そのペンダントを首に通し、しばらく眺めていた。そしてしばしの時間、二人の間に沈黙が流れる。
「……もしこれを僕がつけなかったら、君はどうする?」
唐突に由人は尋ねる。その顔はいたずらっ子のような微笑で歪んでいた。
「何も心配することはない。君は絶対にこっちにやってくる。いや逃げてくる、という方が正しいのかもね。そうだなあ……遅くとも一週間の間には必ずそうなる」
そう答えるノートの顔には邪悪なほどの自信と妖しいほどの引力があった。思わず由人もそれにしばし目を奪われてしまっていた。
「……そろそろ時間切れが近い。なにか最後に訊いておきたいことはあるかい?」
ノートは立ち上がりつつ、そう問う。それを受けて由人は少しの間考え込み、同じく立ち上がって尋ねる。
「最後にもう一度訊こう。……君は誰だ」
ノートはこれまでとは比較にならないほど大きく口許を歪め、答えた。
「――僕の名前はノート。夢の案内人にして、君の『一番の友人』だ。今度はしっかり覚えてくれよ?もう何度も教えなおすのは面倒だ」
その時、また頭上から音が聞こえてきた。今度は鐘の音――不快なほどの音量だ。体が鉛になったように重くなる。そして意識さえもが徐々に遠くなっていくことを感じた。
ノートは、音に溶かされてゆく由人の意識が完全に消滅するまで、延々と手を振り続けていた。
明朝、本物の朝陽によって目を覚まさせられた由人の胸には、確かに昨晩までは存在しなかったはずの琥珀色のペンダントが輝いていた。