第12話
短めです。戦列歩兵を活躍させるための下準備中。
気付いたときには、もう遅い。
これぞ正しくブーメラン。進退窮まり、お腹が痛い。
今、目の前には扉がある。比喩ではない。しかし比喩でもある。
それは丈高い、壮麗な観音開きの両扉。
白地に黄金の意匠は目に優しくないし、取っ手の細工は繊細過ぎて触れるのも憚られる。両脇に立つ華美な衛兵は顔見知りの同僚だけれど、それにしたって豪華絢爛美学の粋を極めた威圧感と高級感は半端なく、しかしそれこそ、この扉の役割だ。
つまり、こいつは身分を隔てる。支配する者、される者。明確に線引く登龍門。抜ければ、そこが国である。
だって何と言っても格が違う。
皇帝顧問会議。
かつての貴族院に成り代わり、国事を定める最高機関。
尚書長を筆頭として、重要諸官署の長官たちが雁首揃え、宮中司祭長もいるはずだ。アレクセイ帝の御世ならば、王族に加えて、顧問として招聘された有力貴族たちすら並んでいただろう。
簡単に言ってしまえば、会社の取締役会みたいなものだが、どっちにしたってセルゲイには変わらない。
一介の社畜にとって、上司とは良いとこ部長が精々だ。常務に専務、社長に会長、その他諸々の役員など、偉い順に並べる事すら難事である。
だから要するに、縁がない。縁遠いと言うより、そもそも縁がない。
前世も今世も、そのはずだった。だと言うのに。
「貴様にしてはな。柄にもない」
興味深げに見上げてくるは幼女様。ニヤニヤ口の端を吊り上げて、どう見ても面白がってますよね、貴方。
「私の生まれはご存知でしょう?」
「知らん。だが、貴様が兵士の中の兵士なのは知っているぞ」
それだけで充分ではないかと幼女は嘯いた。
セルゲイは驚いて幼い上司の顔を思わず伺った。
おいおい。こっちとら微に入り細を穿つ身辺調査の末に、選ばれたのだと勝手に思っていましたよ。
しかし嘘を吐いている様子もなく、この幼女はいつだって予想の斜め上を行く。
じゃあ一体どうして、こんなにも信頼を寄せてくれるのか。さっぱり分からん、このキチガイは。
困惑隠せぬ爺さんを、リュドミラ殿下は更なる気後れと見て取って、呆れたように苦笑した。
「まったく、敵の大軍よりも恐ろしいと見える」
いやはや、その通り。扉の向こうも怖いが、底の見えぬ貴方が一番恐ろしい。
とは申せ、なんやかんや言っても、命令あれば鉄火場だろうと飛び込むのが社畜である。
セルゲイは大きく息を吸うと胸を張る。
「未知とは常にそう言うものです」
一歩を踏み出し、気分はもう落ち着いた。尻で椅子を磨いてばかりの連中ならば、殺されることはあるまいて。
「確かに。だが心配するな。無能ばかりとは言わんがね。家柄と御大層な肩書きで仕事ができるなら、我らは容易く大陸の覇者くらいにはなっていたろうよ」
幼女のそんな軽口を聞き流し、言っちゃあ何ですが、それは安心するより嘆くところね、姫君さん。
そして、ゆっくり扉が開かれた。
案の定と言うべきか。集まる視線が針の様。
刺さる刺さると笑いたいが、とてもそんな雰囲気では御座いません。
見れば、部屋の中央に巨大な長方形の机が一つ。深い色合いの古木の天板が、あからさまにお高いことを主張する。
上では、落ちてきたら即死間違いなしの煌びやかな吊り燭台が光を放ち、左右を見れば、お偉方がズラリ並んで起立する。美味いものを食べ過ぎて、何奴も此奴も太っているかと思いきや、意外にも絵になる程の肥満体は見当たらぬ。
長い髭を悠々垂らし、銘々お高そうな毛皮なんぞを刺繍と宝石で飾り立て、そこは予想の通りであるが、結局誰が誰だか分かるはずもなし。
もっとも写真もテレビもないとなれば、許して欲しい。あるいは元リーマンとして名刺交換の技を見せたいところだが、そんな習慣は勿論ない。
だいたい偉そうにしているが、官吏でないヴァランスキー家の残党貴族連中には読み書きが苦手な奴すら少なからずいるだろう。だったら、せめて自己紹介くらいして欲しいものだが、連中同士は皆顔見知り。新参者は自分だけとなれば、言わずもがな。
そんな中、尚書長だけは判別できた。
何しろ首から鍵を下げているのは独りだけ。
それでなくとも有名人。但し端から見れば、枯れ木のような老人だ。老いてなお意気軒昂と言う人物では決してない。
だがアレクセイ帝の治世以前からの古株で、人生五十のこの時代、今年で既に卒寿を超えたとなれば話が違う。
しかも職分を示す、諸玉璽を納める箱を開け得るその鍵は、帝権の永続性を象徴する。あたかも官職の権能が乗り移ったかのような長命で、成る程、下々にまで名が知られるのも無理からぬ。
帝国大尚書長、ヨシフ・ウラジーミロヴィチ・マトヴィーエフ。
地方小士族の次男として生まれて、中央に職を求めて旅立ったのは、今から七十年も前と聞く。尚書長にあること半世紀を越え、おそらく幼女殿下を擁立したのも、この化け物だ。
もっとも化け物なのは年齢だけと言うのが、専らの巷説である。
波風を立てることなく承認を繰り返す、それが若い頃からの彼らしい。もちろん、尚書長には拒絶する権利が慣習法で保証されている。
そも、彼は皇帝の高官ではなく帝冠の高官なのだ。皇帝は、それを押し切る力を持っていたが、すればやはり外聞は悪くなる。アレクセイ帝ですら他者の掣肘をまったく受けぬ至尊の座にはいなかった。
だからやり方次第で、この長老は帝国政界を牛耳ることすらできたのだ。
「では、始めましょう」
尚書長の嗄れ掠れた声が聞こえた。
しかし、今に至るまで、何もしてこなかった。そう言う人物だからこそ、選ばれた。
ただ、淡々と書類を分別して、必要な判子を必要な箇所に間違いなく押す。悪いとは言わない。それだけで高給が貰えるのだ。セルゲイだって、そうしたろう。
そして、そのまま自然な感じでフェードアウトする。あぁ何と素晴らしき人生哉。
あれから常々、思っていた。
機会があれば胸ぐらを掴んで問いつめたかった。
そう。御璽を得てと、あの時このイカレた幼女は宣った。
だから、つまり彼なのだ。引き金を引いたのは彼なのだ。
この一世紀近くも人畜無害を地で行って、若くして人生勝ち組の楽隠居を勝ち取った男が、今へと至る発端なのだ。
気紛れか、それとも本当に頼まれたら何にでも判を押すのか、あるいは人生最後に臨んで一つ冒険と洒落込みたかったのか。
どっちにしたって、精神年齢的にはたった一世代上のご年輩に言うことは、唯一言。
お前かぁぁぁぁ!!!
コメンタリー
今回は戦列歩兵ネタは無いであります。なのでコメンタリーは短め。戦争前にやはり避けて通れぬ政治の季節ですね。
扉:宮殿にあるような扉ばかりでなく、ホテルにあるような奴ですら恐れ多いと感じるのが小市民根性でありますね。
皇帝顧問会議:一応モデルはフランスとかの国王顧問会議。規模的には大顧問会議相当になる。そのうちに改革して、最高国務会議相当の小顧問会議化したい。
取締役会:正直、サラリーマンやってても、雲の上過ぎてサッパリだよね。ああいう人たちって会議で何やってんだろう。部長・課長会議に呼び出されて報告するだけでも下っ端としては死にたくなります。
尻で椅子を磨く:ピピニーデンばかりと思えば、どんな会議も気後れしないよね。
肥満体:自己管理も満足に出来ないとそれはそれでバカにされるのがセレブの世界だそうで。そもそも、近世当時のカロリー程度なら、現代アメリカ最強肥満クラスにはなれんだろうね。というか、その前にいろいろ発病して死ぬ。医学の進歩ってすごい。
読み書きが苦手:貴族の癖してとバカにする無かれ。当時の識字率というのはヒドいもんで、ロシアなんて1800年ですら、男性で4~8%、女性で2~6%である。だから貴族であっても田舎になればなるほど、読み書きなんて不必要になるので、小学生レベルになってしまい、近世であっても、殆ど字が読めない輩もおりました。
尚書長と官署長官:尚書長はフランスのChancelier de France(尚書局長)をモデルにしてます。尚書局長は例え国王であっても罷免できない国家高官で、宰相に次ぐ重鎮です。
一方で官署組織はモスクワ国家がモデルです。官署は業務重複著しいことで有名ですが、一応フランスの尚書局長に相当するのは国璽官署の長官です。どちらにせよ国璽あるいは、それを納めた箱の鍵を首に下げていて、直ぐに見分けがつきました。
国璽官署の長官は使節官署(外務官署)の長官も兼務していたとコトシーヒンが言っているので、外務大臣兼務となれば、当時としては宰相格か、それに準じる国家最重要高官となります。モスクワでもフランスでも、玉璽の重さは同じということでしょう。
至尊の座:現在において絶対王政とは、そんなに絶対でもないと言われてます。この言葉ができた一昔前までは、特定の勢力と一体となった王権が中央権力として、圧倒的なその力を振るったような理解がされていました。
しかし最近の研究では、実際は中央集権的な力は見かけ上のもので、詳しく見ていくと、旧来から存在する様々な既得権団体「社団」の自律性は維持されていていたことが分かっています。つまり国王は特権を保証したり、変更したり、案件事に結託する社団を変えたりとバランスを取りながら、強い王権のイメージを作り上げ、権威ある裁定者として存在感を示して、外交や戦争などの国家の重要事についての決定権を保持していたような理解が進んでいます。
判子押すだけの仕事:首に出来ないけど、事情があって追い出すことも出来ないような連中のためにあえて電子化しないで、どうでもいい仕事を残しておいてあげている事例がうちの会社にもあるらしいです。どうやったら、そこにたどり着けるのか、寝ても冷めても考えてます。都市伝説だとも言われてますが。




