止まらない、止まりたくない。
手首のぶれはもうどうしようもできなかった。思う場所に行かない、それを念頭にテニスを続けるしかなかった。狙いも細かいところではなく、かなり安全な場所を狙うようになった。それでも人というのはそれになれてしまうらしい。前のように際どいショットが打てなくてもポイントは確実にとれた。むしろ、ミスが減って試合自体はうまくなった。いい事ではあったのだが、同時に私は物足りなさを感じた。今までのようなパワーショットは打てなくなり、コントロールもきかなくなったテニスはやっていても、見ていても、つまらないものとなってしまった。楽しいテニスをどこかにおいてきてしまった、そんな感じだった。
私は再び病院へ行く事にした。テニスが大好きだから、早く自分のテニスを取り戻したかった。前と同じ先生に診てもらった。
「また痛くなっちゃったの。」
先生が優しく声をかけてくれた。私は痛みと手首のぶれを話した。
「じゃあギブス作るから、テニスのとき以外はそれで動かさないようにしてみて。」
先生にいわれて渡されたギプスで、手首は全然動かなくなった。テニスはやめたくなかった私に先生は様々な譲歩してくださった。今でも本当に感謝している。
2週間後、私は一つの小さな大会に出た。手首は、少し良くなった。十分戦える。そう踏んだ私は、テーピングをしてその上からリストバンドをして手首の痛みをごまかした。試合中に見ると精神からつぶされそうだったので、それを防ぐ為にも完全に見えないようにした。優勝までは、7回試合をして勝たなければならない。試合は2日に分かれて行われた。1日目、私は5つの思いを踏みにじった。5人の対戦相手、それぞれ個性がありすこし手こずる事もあったが、スコアは全て6−0で終わらせた。手首の為にもなんとか早く終わらせたくて、頭をフル回転させた。そして2日目の試合の1つ目はすんなり勝ってしまった。あまりにもあっさりと終わってしまい、少し戸惑ったが素直に嬉しかった。そして最後の7つ目の思いは今までのものよりも強かった。このトーナメント初めて1ゲーム落としてしまった。その瞬間、私の頭に手首の事がよぎった。大丈夫と自分に言い聞かせるが、試合中にそれが消える事はなかった。それは、せっかく治ってきた手首に悪い影響を与えた。試合中に何度も手首が痛くなった。ぶれも強くなり始めた。なんとかつないでラリーを途切れさせないようにして、少しずつ勝利に近づけていった。そしてマッチポイント。相手のサーブを打ち返し、ボレーにでた。その瞬間、相手の次に打ってくる場所が読めた気がした。その方向へラケットを動かすと、そこへボールが来て、ボールはウィナーを決めた。7つ目の思いを踏み倒した瞬間、私は人生初の優勝を手にした。しかし、それは私の手首を代償に払ったものだった。次の日の診察に行くのが少し憂鬱になった。先生になんと言えばいいだろう。勝てても、手首が痛いままでは治るはずがない。私は治したくないのかと聞かれてもおかしくない事ばかりしていた。
次の日、診察にいき治らないと伝えると、先生は少し考えた後にこういった。
「大きい病院行く?」
もしかしたらわたしはもう手に負えないと思われてしまったのかもしれなかったが、私は少し考えた後に答えた。
「行きます。」
「じゃあ紹介状書くからそれもっていってもらえるかな。」
言われた病院は大学病院だった。1週間後に行くようにといわれ、病院をでた。それが私の手首との闘いの本当のはじまりだった。そして、それは私の人生をも、テニスの方針でさえも変えていった。
初めての大学病院はとても大きく感じた。受付も大きく、たくさん待った。1時間ほど待った時私の番号がディスプレイに表示された。母親と診察室に入ると若い男の先生が座っていた。
「こんにちは。」
先生はこちらを見て笑った。緊張していた私の心は少し楽になった気がした。症状を細かく質問され、それに答えていくと先生は私の手首をいろいろ曲げて痛みの場所を確認していった。
「MRIをとって、画像でもみたいのでまだ診断はつけられないのですが多分TFCC損傷だと思います。手外科の専門の先生がいますから、そちらの先生に頼みますので次回また来ていただけますか。その前にMRIの予約もしておきますね。」
物事がどんどん過ぎていく中、初めての事ばかりであたまがついていかなくなった私はとにかく母に返答を任せた。次は1週間後にMRI、その1週間後に手外科の新しい先生の診察が入った。診察室を出ると、
看護師さんがやってきてMRIの説明をしてくれた。私にとってMRIも初めてだったため説明を聞いている間頭が少し混乱してしまった。これからたくさんある初めてに少し不安を感じながらその日の病院は終わった。
母とその日はお昼ご飯を食べ、学校へ向かった。すぐに顧問の南先生に今日のことを話しにいった。テニスの試合がまたあり、それは団体戦なのだ。わたしが出るのとでないのとでは大きくチームが変わってくる。先生はそれを心配していたので、私はまだ確実ではないのに試合に出られると言った。部員への感謝の気持ちと思いをつぶしているという思いから私は止まる事を選ばなかった。もう、自分の奥底から湧いてくる部員に対する申し訳ない気持ちが抑えらず止まる事を精神が否定していた。