犠牲の上に立つ者としての当たり前
冬の試合始まり、団体戦が1つと個人戦シングルス、ダブルス合わせて3つで合計4つの試合がある。勝ち残ればその分試合は長引く。試合の前日、私はいつも次の日の試合の目標を立て、頭の中でショットの練習をする。そして、いつもより少し長くシャワーを浴びる。湯船には浸からない。そして、次の日の起きる時間に合わせて寝る。私にとってベストな睡眠時間は、6時間。それ以上寝れば身体が眠ってしまっているし、それ以下なら身体がまだ疲れており身体がうまく動かない。こだわりは、試合の日の朝食にもある。朝ご飯はゼリーと練乳パン。飲み物は決まったスポーツドリンク。パンは朝起きてから、ゼリーは試合直前に。そして試合の合間にとる昼食はおにぎりの塩鮭味だ。お菓子は極力食べないようにする。試合の後は家に帰り、お気に入りの座椅子に座り30分ほど頭を休める。音楽も、テレビも、勉強もテニスの事だって考えない。ただただぼーっとする。この時間に、興奮や怒りを鎮めている。身体の休憩はシャワーを浴びているときに行う。身体を洗い終わった後、シャワーを冷水にかえ5分身体にかけ、温水に戻し5分。これを3回ほどやる。全てはルーティーンであり、そうしないと落ち着かないのだ。
私は冬の団体戦は出られないと思っていた。部活動にも行かずに、ひたすら個人で練習していた。しかし、南先生は私を学校の1番のチームに入れてくれた。そして私が入ったのはチームのエースポジション。シングルス1に入った。先輩しかいないチーム。相手に中学生だからとなめられないように振る舞いには気をつけていた。そして何より、みんなの思いを背負っている事を一番に考え試合に臨ん合に臨んだ。全力を出し切るのが礼儀だと思った。それが唯一の恩返しだとも思った。団体戦は、先輩の敗北によって私は2回戦で敗退してしまった。試合したのは1度だけ。試合中手首は痛みを感じる事なく気持ちよくテニスできた。団体戦は私の個人戦シングルスへのステップとなった。しかし、それは最後の痛みのないテニスの試合でもあった。
個人戦シングルスは予選内でシードになった。学校でもらえる一番いい枠に私は入れてもらえた。みんなの思いを踏みにじって上に立つものとして恥ずかしくないプレーを心がけひたすら毎日テニスを練習した。そして迎えた試合の日。私はいつも通りルーティーンをこなした。試合会場へは一人で向かった。応援もいない一人での戦い。1回戦。スコア6−2で勝利。2回戦0−6で敗退。何が起きたのかは、分かっているがいまだに認められないのもまた事実だ。試合中に起きた右手首の痛みの再発。気をつけていたのに一瞬の振り遅れが招いた痛みだった。痛みは脈を打つたびに感じるとともに、テニスボールを打つたびにも痛みが走った。帰り道、私は南先生に結果報告をする為に電話をした。気付くと涙があふれていた。南先生は、泣くなと言ったがあふれる気持ちは抑えられなかった。みんなの犠牲の上になりたっていた私の試合は情けない終わり方をしたのだ。申し訳ないでは足りない。家に帰りお気に入りの座椅子に座り、気持ちを落ち着けようとしても興奮は収まらない。着替えもせず試合着のままランニングに出かけた。自分への怒りで自分のペースを失い、身体が重くだるい中かなりのペースで走った。2キロ走り少しずつ気持ちが落ち着いたところで、立ち止まり息を整えた。
「ごめんなさい。」
誰もいない公園にむかって、言った。もうこんな事はしたくないと切実に思った。私にはこれからダブルス1つとシングルス2つが残っている。また負ければ申し訳がたたなくなる。もう休まない。テニスにまっすぐにすべてを捧げよう。そう誓った。手首の痛みも我慢し、痛み止めをのんでごまかした。サポーターも手の感覚が変わるからと着けるのをやめ、テーピングに切り替えた。固定力は劣るが、ないよりましとそのままテニスを続けた。残りの3つの試合は部員の中で最も長く勝ち残った。そして、手首の痛みは増していった。周りからはもうやめた方がいいんじゃないかとも言われたが、私はやめなかった。部員の犠牲をたったの一つでも無駄にしたくなかった。その為なら自分の手首はどうでもよかった。テニスができるのであれば、それで十分だった。そして、手首の痛みは私の中で当たり前のものへと変化していった。痛いから休むではなく、痛いからテニスなんだとでも言えるほどだった。毎回の痛みは精神的につらかったが、なんとか耐えていた。するとある日突然痛みが無くなった。痛みが無くなり、テニスが普通にできる人日がたまにやってきてはまた痛みがぶり返してを続けるようになった。痛みは毎日変化した。痛い日、痛くない日。そんな中でのテニスははたから聞けば、ストレスがたまるように聞こえるかもしれないが、私は問題なかった。自分で決めてテニスをしているのだから、感じるストレスがなかった。それにテニスができずにみんなへ何もできない方が、よっぽどストレスになっていたと思う。しかしそうやってなんとかテニスを続けていられる時間も過ぎていった。右手首に感じた違和感。打つ瞬間の手首のぶれ。ボールはコントロールを失い大きく的を外れるようになり始めた。そう気付いたのは、2度目のアメリカ短期留学での練習中だった。
今日、東日本大震災から4年が経ちました。今こうして私が生きているのには、意味があると思います。そして、私は生きている者として、毎日を一生懸命生きていきたいと思います。