感染ファンタジー
初めての感染例が報告されたのは、今から20年くらい前の事らしい。だいたい僕が生まれる5年ほど前のことだ。
「彼女は精神病患者だった。いや、そうであるとされていた。症状がどんなのだって? 本当に気狂いのそれさ。なんでも車が馬車に見えるらしい。鉄の鎧を着た馬に引かれた馬車なんだって」
馬は桁違いの速さで、重そうな馬車を引いていく。まるで車だ。というか車であるはずなのだ。だが彼女の目には馬車に映った。都会のビルが古代文明の遺産群に見えると言って、田舎にある実家へと引き籠った。
彼女にはその田舎すら、レフトンと呼ばれる四足の丸々と太った不思議動物を育てている、幻想的な場所に映ったらしい。
「黒豚だよ、く・ろ・ぶ・た。九州あたりだっけ? チャーシューとかにすれば美味しいのかな。それとも豚トロ? まあ、そういうのを育ててる畜産農家だったらしいよ。彼女の実家」
彼女にとっては、自分の実家ですらまともな場所では無くなっていた。そんな彼女を心配して、両親は精神科医に彼女を診断させることにしたそうだ。どう見たって異常であるし、何らかの病気であることが分かるだけでも、まだマシだからだ。
「彼女にはその医者も重厚なローブを着込んだ僧侶に見えたらしい。彼が手から白い光を放って、自分の傷を癒そうとしているんだとさ。笑える話だろ? 医者が僧侶って、ゲームじゃああるまいし。完全に入院必須の患者なのは間違いない。実際、そういう診断もされたんだ。まずかったのは、その医者が感染例の二人目になっちゃったことかな」
医者はある日の朝、目が覚めると自分が僧侶になっていたらしい。その言葉を聞いた彼の妻は、夫が日ごろからハードな仕事をしている事を知っていたので、すぐにベッドで横になっている様に伝えて、彼の勤め先に今日、夫は休むという旨を伝えることにした。
「精神科医っていうのは、患者に影響される人が多いらしいね。多分、その類だったんじゃあないかなあ。一週間くらいしてから、家がゴブリンの集団に囲まれてるとか言って怯えだしたんだから、もう完全さ。精神科医が精神病に罹ったら、誰に見せれば良いんだろうって奥さんが考えているうちに、そのお医者さんはゴブリンに食い殺されるって悲鳴を上げながら、心臓麻痺で死んだんだって」
ここまでならば、ちょっと奇妙な事件で終わる。そのはずだったが、最初の患者。その両親までもがおかしなことを口にし始めたので、事態はより一層深刻化した。
「娘の言葉に影響されたのかなあ。両親まで、自分達が育てているのはレフトンと呼ばれる動物だなんて言い始めた。レフトンは毛むくじゃらで、肉は柔らかく、毛皮は火に強い服の材料にもなる便利な動物。なんて事を喧伝し始めた。一家ごと狂ったんだって小さな田舎じゃあ噂されたはずさ。そんな噂は、すぐに無くなったんだろうけど」
一家がまともになったわけでも、噂から七十五日経ったわけでもない。その田舎そのものが、レフトンを育てる村に変貌しただけだ。
「現代日本のど真ん中に、不思議生物を育てる幻想的な村がドンと誕生したわけ。いや、日本を今じゃあエルドランドって言うんだっけ? 東京があった場所は超古代文明の遺産が佇み、侵入者を排除する機械群が、数多くの冒険者を阻んでいるとかいう設定だっけ? その場所にある物品一つ持ち帰れば、一攫千金! いや、僕にはマンホールの蓋にしか見えないそれ、本当にその………ハルコナイトとか言う伝説の貴金属に見えるの?」
何時からか、一人の女性から始まった変化は、一地方を飛び出し、日本全体に広がって行った。ただ感染者は口にするだけだ。世界が違って見える様になったと。それは国を越え世界中へ広がるのに、10年の時間を必要とした。
「僕が物心ついた頃、日本じゃあ8割以上の人間が感染者だった。感染者は地方毎に存在する王様や女王様。いや、僕から見たら地方自治体の長にしか映らないんだけどさ、そういう人達の元で働いたり、冒険者で良いんだよね? なんかハローワークで仕事を見つけようとしている人達。え? 冒険者ギルド? そんな事言われたって………」
とにかく、その頃の僕は圧倒的に少数派だった。だけど仲間もいた。役所が王宮に変わって困惑している大人の仲間。
「両親? 両親はもう駄目だったよ。親父は王宮騎士団の一団員で、母親は宮仕え中に親父に惚れ込んで結婚した、貴族の次女ってことになってた。僕はそのお坊ちゃん。仲間って表現したのは、父さんの同僚さんだね。その人曰く、僕の家は両親ともに公務員で、母さんは寿退社したってだけの一家だったはずらしい」
彼の説明は、自分にとってしっくりと来る物だった。新調した鎧だと言って、クリーニングから返って来たばかりのスーツに袖を通し、傘を騎士の誉れだと言って腰に帯びる父親の姿は、騎士というより頭がおかしくなったサラリーマンにしか見えなかったからだ。
「だけどまあ、仲間を見つけたと言っても、少数派であることには変わりない。社会は幻想の世界を中心に動く様になっていたし、それに飛行機が飛んでいたら、みんなしてドラゴンが攻めて来たとか言って非難するのが普通なんだよ」
何時からか、狂っているのは自分の方ではないかと思う様になった。仲間の大人も同様に。ただ、自分は飛行機に襲われた事は一度だって無かったし、ドラゴンの炎に焼かれて死んだと説明された死体も、心臓発作でぽっくり行ったそれにしか見えなかった。
「だから、正常なのは自分の方だって思っていたよ。けどさあ………辛かったなあ。仲間の大人が、いきなり父さんと同じ出で立ちで、自分を王宮騎士団の副団長だって言い始めたのは」
感染は残りの二割も容赦なく飲み込んで行った。世の中は不思議な世界こそが正しい場所で、それ以外を見ている人間は狂人になってしまう。いや、その狂人すらも、何時かは“正常な”人間に戻って行くのだ。
「今、僕みたいな人間はどれだけいる? ああ、いいよ、エルフでもオークでも、ノアキールのフェンデルス人だって構わないからさ、僕みたいな事を口にしているのはどれだけの人数が残っているか。僕が知りたいのはそれくらいなんだって。ねえ、ちょっと、聞いてる? 診察に来たのならさ、患者の言葉くらい答えるべきじゃあないかな? それでも医者なの? いや、僧侶だっけ? どっちでも良いよ。あ、まって―――
「あの狂信者。やはり偽神に憑りつかれているな」
私は同じフォーリス神に遣え、私より一ランク下の地位にある部下に向かって、さきほどの狂信者についての話題を口にする。
「怪しき教えに導かれていると言い換えても良さそうです。確かに、危険なはずの古代遺跡に潜り、無傷のまま、数多くのアーティファクトを手に入れてくるのは、背後に何か大きな力を感じずにはいられません」
部下の言葉に頷く。極稀にだが、あの様な事を口にする者が現れる。似通った文言であるため、我々は、偽神と呼ばれる何者かの影響を受けてしまった、哀れな狂信者として彼らを扱っている。これもフォーリス神の慈悲によるものだ。
「あの信者は特に酷いな。エルドラド島の中でも、もっとも神聖とされる我らが町、ジールーセンが、ああー、なんと表現していたか………」
「バブル時代に乱立された、郊外のダンチ………とかいう、良く分からぬ言葉だったかと」
「ああ、それだ。可哀そうに。完全に心の性根まで偽神に洗脳されている」
例え邪悪なる神を信仰していたとしても、ああいったやからには怒りを覚えない。むしろ心に浮かぶのは憐みだ。なんとかしてやらねばという義務感も共にある。
「ですが、フォーリス神の加護の元にいれば、彼とて何時かは」
「ああ。別の町から取り寄せた巻物によれば、狂信者とて根気よくこの世界の理を説けば、必ずや偽神の束縛から逃げ出せるとある」
「事実、あの様な狂信者は、今世では稀かと」
そうだとも。世界は正しき神が作りし場所なのだから、偽神の幻惑は払われてしかるべきなのだ。あの哀れな狂信者も、何時かは正しき神の元で正しき心を手に入れることができるはず。
「ふぅ………しかし、ああいう輩と話していると、疲れてしまうというのは、不信心かね?」「はあ? いえ、そういうことも無いでしょう。疲労は誰しもが覚えるもの。なんなら、私が回復術法でも………」
「いや、こういう時は帰りにきゅっと一杯、日本酒か焼酎を飲むに限る」
「はい? ニホンシュ? ショウチュウ?」
「ところで、最近は妙な建築物件が増えているな。帰り道に、耐震免震構造の新築物件という売り文句の看板が立てられた、あの家はいったい………」
「大変だ。神官長が偽りの神に憑りつかれてしまった」