~54.
弥生が知らせる春の音。立春が人々に季節を知らせていたのはもう随分と昔のことだ。今、人々は卒業や年度末なんて言葉を借りながらこの春を体に感じていることだろう。俺も当然その一人なのだが、待ちわびていたこの日は、それらに当てはまらない特別な日。
桜が開花した。毎日、毎日待ちわびたこの日。何かの間違いで、開花予想とずれることがあるかもしれないという、根拠のない希望的観測をことごとく裏切られながら、ついにこの日がやってきたのだ。
今朝のニュースを見て家を飛び出し、道行くところに桜があれば、その枝先を眺めてにやついていた。つい先週知らされた受験結果の喜びに浸ることもなく、明日の卒業式への緊張もなく、ただただ桜の花が咲いているという喜びだけを噛み締めながら、俺はあの木の元へ向かっていた。
聞きたいことは山ほどある。だがそれよりも、言いたいことを言うと決めて臨んだ今日この日。臆す気持ちも躊躇う気持ちもない。今日、この手に帰ってくる『ありふれた日常』を受け止める心の準備は万端だ。
ペダルが軽い。坂でもないのに、スピードに乗っている気がする。風が少し温かくなっただろうか。そりゃそうだろう。今日は桜が開花する日なのだから。
学校へのルートを大きく外れ、毎日訪れていたあの場所へ。こんなに早く走っているのに、何故だか遠く感じるという矛盾。そう、言ってしまえば根拠なんてあの手紙しかないのに。再び幼馴染に会えるという確信は、あの手紙一枚の一文からしか得られていないのに。
要素さえ鑑みれば、今この胸に秘めた期待なんて矛盾だらけの確信だ。それでも、どんなに盲目的でも俺は信じている。穴だらけのロジックが溢れているのが俺が過ごす日常なのだから、矛盾も破綻も恐れることがもはやアホらしいとすら思える。
自分の都合のいいように、願いが必ず叶う、努力は必ず報われる、そんな後ろ向きな誰かが考えたような前向きらしいモットーでさえ、今の俺には本物のポジティブに思えてくる。きっと俺は、疑えば疑うほどに何も出来なくなる人間だから。
--植木屋が見える。向かいの桜の木も見えた。急いで自転車を止めて、桜の木の元へ向かう。こんな朝っぱらから、こんな場所に誰がいよう。誰もいないさ。
あの手紙に時刻は記されていなかった。だが、あの手紙に書かれたように、今このソメイヨシノは美しい花弁をつけている。満開は1週間後くらいだろうか。開花したその日にまじまじと桜の花を見るなんて生まれて初めてのことだ。
待ち合わせに先に来ることが出来た。上出来だ。ちょっと気分が高揚しすぎているようなので、どうにかして落ち着いたほうがいいだろう。今のままじゃ、再会に慌てふためく情けない自分の姿が予想できてしまう。
深呼吸。それが心を落ち着かせる方法として意味を持つということを、この瞬間まで知ることはなかった。実際に試してみると、なかなか効果があるようだ。
木の幹を背に座り込んでみる。学校にあるような大きな桜の木よりも、この木は小ぶりである。それ故に、いや、それだけではないが、この木は他のどの桜の木よりも俺にとって身近なもので、この先ずっと、俺の生活の傍らに在るものになるだろう。愛おしいなんて言葉を使うと、気持ち悪いだろうか。
無意識にニヤついていたことに気付いた俺は、辺りを見渡す為に体を少し起こしたのだが、その瞬間に異変が起きた。
--高揚が治まる直前、思考が巡る最中、俺の視界は真っ暗になった。真っ暗と言えば語弊がある。視界には隙間のようなところから差し込む光があり、目の辺りを覆う人肌の温もりも感じる。つまりそれだ。
「だーれだ?」
『それ』を確信させるこの一言は、ありふれていながらも中々耳にすることがないもの。その声の主に気付きながらも、問いに答える言葉が出てこない。悲しみは当然、喜びも行き過ぎれば支障を来す。なかなか声帯が言うことを聞いてくれない。
「ん? 忘れたとか無しだからね」
「……忘れた」
やっと出た言葉が、憎まれ口。それが俺の愛していた日常の一欠けら。ようやくここに戻ってきた。
目を覆っていた幼馴染の両手を無理にほどき、振り返る。
「……ただいま」
百瀬は笑っていた。いつものように。
その笑顔を見ると、今ここに自分が存在しているということが紛れもない現実なのだと改めて認識させられた。
決して何もファンタジーなこと等起きてはいない。俺がこれまで見てきた事実を、順序立てて組み上げていっても、俺が『見た』ものに摩訶不思議なことなんて何もなかった。理由や経緯なんて、本当のところは俺には何もわからないじゃないか。
「ごめんね。心配かけて」
百瀬は笑顔のまま、少し申し訳なさそうにそう言った。まったくだ。心配かけたなんてもんじゃ済まされない。でも、おかげで俺は変われたかもしれない。
危なかった。手の届く範囲の幸せすら感じられない人間になってしまったら、どうしようもない。何の為にどんな努力をしていたのかわからない自分なんて、俺はそんな人間になりたかったわけじゃない。全力でやれ、だなんて言葉の意味を理解できなかった自分を、今なら恥ずかしく思える。
「百瀬」
「なに?」
「……顔色いいな」
「……綺麗に咲いたからね」
見えない未来の為に、見える今を手放さないこと。退屈で平凡な日常が大切なら、退屈や平凡を掴む為にしなければならないことをする。維持を図るっていうのは、何もしないことじゃないんだよな。見えるものが見えるもので在り続けられる為に、するべきことがある。
「あのさ」
「ん? 何?」
俺が言おうとしている言葉は、何の捻りもない平凡な言葉だ。でもいいんだ。ここに俺がいることも、百瀬がいることも、何の変哲もない平凡な高校生の日常として俺の目に映っている。
何も言えずに後悔したあの日の俺の汚名を、ここで返上するだけの事。俺は俺から見える現実をしっかり受け止めて離さないと決めただけ。何も、俺の身に起こったことなんて何もファンタジーなことじゃない。
--ただ、ひとつわがままを言うならば、桜が満開だったなら、もう少しロマンチックで胸がときめくようなシチュエーションになったかもしれないということくらいだ。




