~53.
この桜の木が、来る開花に向けて準備万端だという事実は俺一人では判断が利かない。だが、樹木のプロがそう言う以上、その言葉を信じるのが筋だと思う。
吉見さんは木の幹に手を当て、目尻に皺を作りながら微笑んだ。
「よかった。この木を生かす事ができて本当によかったよ」
「僕も同じ気持ちです」
「花が咲いてこそ、桜だ。ここに一本のソメイヨシノが生きているという証を、枝いっぱいに表した後、地面いっぱいに散らすこと。それが叶う」
「ありがとうございます。ここから、僕に何か出来ることはあるんでしょうか?」
「あるとも」
吉見さんはそう言うと、懐から一枚の紙を取り出した。そしてそれを俺に渡し、中を見るように促した。
何の変哲もない、便箋のような一枚の紙。三つ折りを開くと、そこには見覚えのある文字で綴られた一文があった。
『夏樹へ 花が咲く頃、またここで。 百瀬さくら』
短くも、読み手を震わせたこの文章。恐怖でも感動でもない手の震えを感じた俺は、一瞬声の出し方を忘れたような感覚に陥った。
たじろぐ俺を見た吉見さんは、悟ったように微笑む。
「差出人は、君の大切な人かな。今朝ここに置いてあったんだよ」
幹の分かれ目を指差しながらそう言った吉見さん。この手紙のことを俺に伝える為に電話をくれたのだろう。
「青春だね。若者のそんな一ページに、脇役としてでも登場できたことが誇らしいよ。私のわがままに、誰かが喜んでくれるという副産物があったなんてね」
冗談交じりとは違う、きっと本当に喜びを感じてくれているんだろうと、その笑顔から察することができた。お礼なんていくつあっても足りないだろうに、月並みの言葉しか思い浮かばない俺が情けない。
「吉見さん、ありがとうございます。本当に……本当にありがとうございました!」
心の震えを抑えてようやく出た言葉がこれなのだから、やはり俺には作家なんて向いていない。それでも何故か、この言葉以上に今の気持ちを伝えるものはないと思えた。
「じゃあ、また何かあったら電話しなさい。こちらも何かあれば連絡するよ」
吉見さんはそう言い残して去っていった。俺からろくに返事もないだろうと期待したような去り際は、人生経験から来る優しさなのだろうと思えた。現に俺は、この手紙が示す意味を整理するだけで脳のキャパシティを使い果たしている。
百瀬はやはり生きていて、ここに桜の木を植え替えたことも知っている。そして、俺の前に再び現れると宣言してくれた。喜びが俺を支配していく。指の先まで、幸福を感じる。
ここ最近の俺の涙腺のガードの緩さは異常だ。悲しいときも寂しいときも、絶望したときも嬉しいときも、どうにもこらえが利いてくれない。ただ確かなのは、今間違いなく俺が希望を感じているということ。今流している涙の先に、俺の求めていたものがあるのだという確信。
手紙の一文がくれた喜びを噛み締めた後、落ち着きを取り戻した俺は頭に残っていた疑問をもう一度掘り起こしてみた。
--百瀬は何故、これまで姿を現さなかったのだろうか。俺の前に、俺達の前に。姿を現すことが不可能だったのだろうか。いや、それならばこの手紙の存在は何なのか。
しかしながら、百瀬がいなくなった件については一部始終がファンタジーだ。答えを導き出すのはきっと想像力なのだろう。作者の気持ちを答えなさいといった国語の問題は、不得意ではなかったはずなのだが。
今ここで疑問を晴らすことを諦めた俺は、この手紙のことを知らせなければいけない人物の事を思い出し、急いで電話をかけた。
『あいー。どないしたん?』
すぐに繋がった受話口の向こうから聞こえた間抜けな口調が、俺の思考をぐんと日常に引き戻した。
「百瀬から手紙がきた」
『……ほんまか?』
「ああ。俺宛に、花が咲く頃に桜の木の下でって」
『……』
「やっぱり生きてた、あいつ」
『……』
和哉の無言の理由は、かすかに聞こえる鼻をすするような音で察することが出来た。同じ喜びを噛み締めることができる仲間がいたことに、また幸福を感じた瞬間。
『きっとな』
「ん?」
『きっと、命を感じたんちゃうかな』
「……そうかもな」
『花が咲くこと、わかったんかな』
「わかんねぇよ。俺には」
『……せやな』
理由は後で聞けばいい。どうせ、俺達の想像もつかないようなことだから。謎解きなんて、今の俺には無理だ。
『夏樹、桜はいつ頃咲くん?』
「吉見さんが言うには、来月には咲くみたいだ」
『一ヶ月もないな。卒業式の頃か?』
「大体その辺りだな。桜の開花情報なんて、毎年聞き流してたからよく知らないんだよなぁ」
『俺もや』
笑いが零れるやりとりはいつものことなのだが、今日はやけにそれが懐かしく思えた。
今年の俺は、生まれて初めて桜の開花情報を気にしながら春を迎えることになる。そして、この地域の桜が咲き始めるのが待ち遠しくて眠れない夜を、あと何週間か過ごす。その間に、言いたいことでも全部まとめておこうかな。




