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~49.

 懐かしい匂いがした。懐かしいと言っても、最後にここに来たのは数ヶ月前のことで、そんなに昔の話じゃない。旅行に行った後、自分の家に帰ってきたときに感じるような、そんな匂い。

 不用心すぎる。玄関の鍵も閉めずに夜を越そうなどと思うならば、もう少し人口の少ない田舎でないと。でも何故かそれが、俺がここに来るのを待っていたという証なのではないかと疑ってしまう。


 玄関には綺麗に揃えられたローファーがあった。百瀬の伯母さんの家に置いてきたはずの鞄やマフラーも、造作的にそこに佇んでいる。ふとスイッチを押してみれば電気も点いた。

 間違いなく、百瀬はここに来ている。推測でも希望的観測でもない何よりの証拠が目の前に転がっているのを確認し、俺は呼吸を整える。人の気配はしないが、きっと夜になればどこの家もそんなものだろう。ましてや、ここの家に帰ることが出来る人間は、今やたった一人しかいないのだから。


 静かに階段を上る。何故だろう。人の家に勝手に入ってきたような俺だが、真っ先にリビングに向かうのは気が引けた。今向かうべき場所が百瀬の部屋だと無意識に感じたのはきっと、この家での思い出のほとんどが百瀬の部屋にあったからだろう。ノックもすることなく、その扉を開いた。


 小さなテレビ、年季の入った学習机、淡い青色のカーテン。いつ来ても、この部屋は綺麗だ。だがいつもと違うのはやはり、百瀬自身の存在だった。

 扉を開ければきっと、ベッドに天使のような寝顔の百瀬が横になっているんじゃないかと期待してしまった自分がいたのだが、見事に裏切られた。最後にここへ来て思い出を噛み締めた後、またどこかへふらっと消えてしまったのだろうか。ため息をこぼした後、学習机の上にあった物に目が留まった。


 大きなクリップで束ねられたA4のコピー用紙。一番上には「タイトル未定」という文字。それをめくると、縦書きで綴られた文字達が顔を出した。決して枚数の少なくないそのコピー用紙の束が百瀬の書いた小説であることがわかると、俺は椅子に腰掛けて文頭から読み始めた。


 物語は、異常なほどすんなりと頭に入ってきた。基本に忠実な文章構成や、無理のない比喩や、高校生という馴染みやすい主要人物。ありがちとは言え王道である日常を描いた青春のストーリー。どこかで見たような気がするのも仕方がない。これは紛れもなく、百瀬や俺が過ごしたこの現実を綴った物語であった。

 ヒロインの幼少時の回想から始まり、手短に小学校と中学校での出来事を挟んで高校生活へと入る。俺から見れば、これは思い出話のようなものに感じられる。

 読み飛ばすことなく、俺はそこに描かれた思い出話に耽った。自分の思い出話を別の誰かに話されているという、こっ恥ずかしい感覚。こんなことあったな、そんなこと言ったかな等というのが感想で、結末を待ちわびるという小説の醍醐味から大きく外れている。


 外が少し明るくなり始めた頃、思い出話は結末を迎えようとしていた。ヒロインの失踪。当然、原因はこの現実と同じものだ。物語はそこから続くことなく途絶えていた。

 --駄作だ。読者が楽しみにしている結末を放り出す形で終わりを迎えてしまったこの小説は、ひとつの作品として成り立っていないのだ。たとえそれが、不本意な事態に陥ったことが原因だとしても。

 物語がこの先続かなかったように、俺と百瀬はこれから先の思い出を作れないかもしれない。かもしれない、というのは精一杯の希望だ。間違いなく、生きた状態で桜の木を植え替えることに成功したという事実をもっての希望。まだ百瀬が俺の前に現れないということがどういうことなのかを、自分に都合良く捉えることで残った希望。


 原稿を元の位置に戻す。途切れた物語と違って、刻々と現実は進んでいく。次の句読点へ、次の段落へ、次のページへ、次の物語へ。現実を綴ったこの原稿がここで止まってしまったことが、百瀬が存在するという俺の現実の終わりを告げたように思えた。虚しいとも違う膨大な喪失感で胸が張り裂けそうだ。


 けれども、現実はこの物語よりも先に進んでいる。今ある幸福を維持することに、努力が必要と感じなかった俺はもういない。大切なものを失っただけの自分じゃない。この物語を綴った人間の知らないところで、登場人物が成長している。それを一番伝えたい人が、ここに帰ってくるのを待っている。


 立ち上がり、部屋を出て家中を捜した。かつて立ち入ったことのない部屋も、一度は気が引けたリビングも、風呂場も洗面所も。ぶつ切りになったストーリーの続きを、現実がどう動いているのかを、今すぐにでも伝えたい。会って伝えたい。

 きっと心のどこかで百瀬がもう帰ってこないんじゃないかという不安はあった。あったけれども俺は、それに押し潰されない様に、今できることをやってきた。

 家の中にある扉を開くたびに、息が苦しくなる。この家中の扉という扉を全て開いたときに百瀬が見つけられなかったら、一生見つけられないような気がした。もう十分、俺は正気の自分を見失ったよ。勘弁してほしい。頼むから早く、もう一度。


 心の叫び虚しく、ここには俺一人しかいないことがわかってしまった。

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