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~48.


 頬を伝った涙を拭く。よかった。次々ととめどなく溢れてくるタイプの涙ではないようだ。真夜中にこんなところで大泣きしてしまうのはみっともない。とりあえず動こうと考え、俺はペダルを漕ぎ始めた。

 目的地は特にない。まだ帰ろうという気にもなってはいない。こういう時、何も知らない道があればそこを進んでみようとも考えるのだが、この町のことを知り尽くした俺にそんな道はない。そうなると自然と家に向かおうと動いている自分がいるんだよな。昔もそんなことがあった。


 ふらふらと自転車を漕いでいると、最近通りたくても通らなかった場所のすぐ近くまで来ていた。あの交差点を右に曲がると、百瀬の実家がある。あの事故があってから足を運ぶこともなくなり、事故のことを忘れたくて避けるようにすらなったあの場所。今はそんなことも考えず、ふらっと近くまで来てしまった。寂しさに駆られたのだろうか。


 交差点を右に曲がり、幼少期から幾度となく訪れたその場所を見ると、夜だというのに辺りが明るくなったかのような錯覚に陥った。何も怖くなかった幼少期の自分は、ここで幾年後のことなんか何も真剣に考えず、ただただ来る日を楽しむように笑って過ごしていたんだ。そんな情景がフラッシュバックすると、さっき拭った涙がまた溢れそうな気がした。

 いざという時に、大切な人の顔がはっきりと思い出せないのは何故だろう。人の顔を覚えるという行為は、視覚に助けられることで成り立ち、またそれは再びその人に会えるということが前提になっているのだろう。人の顔を忘れないというのは、いつでも脳裏にくっきりとその人の顔があるということとは違う。


 ここで過ごした日の思い出。映像として俺の脳に残るいくつもの思い出。正直、まだまだたくさん刻めると思っていた。いつまでも、あの日々が続くと思っていた。月並みだが、失って初めて気付くというその言葉の真意を知ったんだろう。


 門の前で立ち止まっていた俺は、夜と冬が織り成す寒さも忘れて回顧に浸っていたのだが、ふとその思い出の中に登場したある物について思考し始めると同時に少しずつ現実に帰ってきた。


 --百瀬が書いていたという小説。ずっと中身を見せてくれなかった物語は一体どんなものだったのだろうか。秘密、という言葉でずっと誤魔化されてきたのも、それはきっと俺がいつか見れると確信していたから、はぐらかされることを受け入れていたのだろう。

 考えれば考えるほど気になってくる。今この真夜中に、人の気配はない。そのせいでこの世界に一人ぼっちと錯覚したくらいに深い静寂。もし百瀬が長いこと住んでいたこの場所にまだあの原稿があるとしたならば、今ココでそれを知るチャンスかもしれない。特に善悪の判断に時間を設けることもなく、俺は門を開けた。


 その門の先には荒れ放題の庭が広がっていた……はずだったのだが、予想していたよりも綺麗である。雑草が生い茂っているかと思ったのだが、そこまででもない。百瀬がここに住まなくなってからおよそ4ヶ月くらいだったと思うが、たまに百瀬が来て掃除でもしていたのだろうか。


 庭を一通り見回していると再び思い出がフラッシュバックされたが、それに浸れる程に頭が真っ白な状態ではない。この庭の状態を見て、もしかしたら誰かがここを掃除しているのかもしれないと考えたのだ。

 --もしかしたら。振り返り、門の横に取り付けられている郵便受けを覗く。何も入っていない。反対側に回って確かめるが、入り口をテープで塞いでるわけでもないし、表札もそのままだ。当然だろう。ここは売りに出してもいない状態で、きっと百瀬が学生生活を終えたら帰ってくるはずだった場所なのだから。


 --郵便受けに何も入っていない。新聞なんかは止めただろうし、学校からの書類は叔母さんのマンションに行くだろう。だが、服屋や薬局等のダイレクトメールや、宗教勧誘の紙も、全く何も入らないままなんてことがあるだろうか。ここに今人が住んでいないことを、ここに何かを送る人間全員が知っている状況じゃない。


 自分から姿を現すはずと信じて待っていた俺だが、何故最低限の捜索さえしなかったのだろうか。もしここに百瀬がいるとしたならば……。

 いてもたってもいられない。次の瞬間には玄関のドアに手をかけていた。

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