~46.
「君は、よっぽどあの桜の木が好きなんだね」
吉見さんは俺に尋ねた。その質問の意味が、発する側と受け取る側で異なるものだったとしても、疎通すると思った。
「……はい。18年間、ずっと一緒でしたから」
「そうかい。今日の作業にも、やる気が出てきたよ」
「今日……ですか?」
俺より先に、和哉がそう聞き返した。
「そうだ。植え替えに関しては私が勝手にやっていることだからね。他の作業員たちの邪魔にならない時間に進めているんだ。今日は時間もたくさんある」
「その、植え替えはもうできる状態なんですか? 土の問題とか、植え替える場所とか、そういったことは……」
「心配ないよ。あの木の周辺の土は入れ替えて、根の再生も確認できたところだ。季節的にさびしい見た目をしているかもしれないが、あの木は間違いなく生きている。そして生きたまま、私の土地に植える」
嬉しいなんて言葉で、この肩が震えるような気持ちを表していいのだろうか。結局、自分ではどうすることもできなかった。それでも、どうにかなってしまいそうなこの現状に、俺は自分の情けなさや不甲斐なさを忘れて、ただただ涙を流した。
吉見さんは笑顔のまま、俺のみっともない姿に驚くこともなくこう続けた。
「もしよければ、植え替えを手伝ってはくれないかね?」
「もちろんです! 俺にも夏樹にも、断る理由はありません」
「はい。出来ることがあれば、俺たちにやらせてください」
「ありがとう。木を植える場所を案内するよ」
そう言って吉見さんは立ち上がった。ありがとうは、こちらが言うべき台詞なのに。
玄関を出て、大きな庭を後にして向かった先は、門を出た所。狭い道路を挟んだ向かいに更地があった。来るときには気にも留めていなかったが、庭ではなくここに埋めるのだろうか。
吉見さんは遠くを見つめながら呟いた。
「もともと、ここに道はなかったんだ」
「そうなんですか」
「こんな狭い道でも、一般市民には必要だったんだろう。許可を出して、私はこの家とあの土地を切り離した。もともと畑として使っていたんだけどね、この土地は」
「今は……何もないんですね」
「造園業が思ったよりも軌道に乗ったからね。いつか売りに出そうと考えていたのだが、あの桜の木を見てから考えが変わってね。ここに植えて、育てたいんだ」
話しながら歩いて、土地の真ん中まで来た。このあたりの地面の雰囲気が少し違っている。土を全て入れ替えたのだろう。
「穴を掘ってほしいんだ。君たちに」
そう言って吉見さんは、胸ポケットから小さく折りたたんだ紙を取り出し、それを丁寧に開いて俺たちに渡した。そこには細かく、木を植え替える手順が記されていた。
「穴のサイズはそこまで大きくないが、私一人では少々体力的に厳しい。そこで若い二人にお願いできればと思ってしまってね」
やらない理由がないとはこのことだ。すぐに首を縦に振ると、吉見さんはこの後の予定について話し始めた。
「こちらに木を持ってくるのは私の役目だ。今から作業を始めて、そうだな。穴を掘り終えたら私に連絡してほしい」
そう言って吉見さんは名刺を俺に渡した。
「携帯のほうに連絡をお願いできるかな。もし出なかった場合はトラックの運転中だと思うから、すぐに掛けなおすよ」
「わかりました。スコップなんかはお借りしてもよろしいでしょうか?」
「ああ、庭に置いてあるものを好きに使ってくれて構わないよ」
そして一通り、渡された紙の内容を説明してから吉見さんは去っていった。
「さて、さっさと始めるかぁ」
伸びをしながら和哉がそう言った。体力のある人間がいるだけで心強い。だが、作業を始める前に、俺には自分の胸の中の晴れない霧をどうにか晴らしたいと思った。
「和哉」
「ん? どしたん?」
「俺は今、すげぇ悔しい」
「……そうか。時間もないし、ちゃっちゃと掘ろうや。スコップ持って来るわ!」
--中途半端。曖昧。不明瞭。俺のこれまでの人生はそんなものばかりだった。全力を出し切らないその怠けた生き方が、心地良いと感じてしまっていた。
小説、短距離走、バスケ。得意なものにも好きなものにも全力でぶつかれなかった。何かと理由をつけて、保険をかけて。上手くいかなかったときの事ばかり考えて。一生懸命になることが、どうして格好悪いと思ったのだろう。
そんな風に考えていたから、こうなってしまったんだ。もし、俺の気持ちをアイツにあのとき伝えることができていたら、こんな惨めな気持ちで今日を迎えることはなかっただろう。
『ねぇ』
『ん?』
『夏樹はさ、全力でやってる?』
『何を?』
『……全部』
『なんだよいきなり』
『いいから答えて』
『……全部は、やってねぇ』
百瀬との会話が頭をよぎった。全部は、って言ったけど、あの時俺は、自分が何に全力になれているかなんてわかってなかったんだ。小説を書くことも、大学受験も、将来の夢も、全部曖昧にしていた。
自分が何をしたかったか、何が欲しかったのか、わかっていなかった。何も考えなくても、なんとかなると思っていた。
今年の冬は、異常に寒い。もし俺がここで全力を出す人生に切り替えていかなければ、きっとそう感じる未来が来る。自分が何をしたいのか、何がほしいのか、わかるようになった。わかっててぶつかれないなら、本当に寂しくて、寒い人生だ。百瀬はきっと、俺にそう伝えたかったのだろう。
「持ってきたで。って何やその辛気臭い顔は……」
急いでスコップを取りに行ってくれた和哉からの言葉。辛気臭いか。そんな人生はまっぴらだ。もうごめんだよ。こんな辛気臭い想いは。
「サンキュ。よっしゃ始めるぞ!」
「おう! ってなんや急に元気出してきて!」
地面にスコップを突き刺す。新しく柔らかいその地面は、いとも簡単にスコップが突き刺さる。こんな簡単なことしか出来ない。でもそれを、俺はそれでも全力でやりたい。
--掘る。とにかく掘る。掘り進める。冬なのに、汗が滴る。土の匂いがする。穴を掘りながら、親友に語りかける。
「和哉」
「おう、どしたん」
「俺、やりたいことできた」
「そうか。なんや」
「大学受験を絶対成功させて、小説も納得いくまで書いて、んで百瀬に告白して、卒業したら植木屋になって!」
「植木屋やと? おいバスケはせんのか!」
「それはお前に全部託す!」
「そうか!」
「とりあえず! 全部! 全力で!」
腹の底から、吐き出せるものを全部吐き出した。




