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~42.

 家の鍵を閉めるときにふと思った。この百瀬の伯母さんの家は、住人を失った今どうなってしまうのか。賃貸ではないのだが、放っておいても大丈夫なのだろうか。そしてこの鍵は一体どうしたらいい。まだ売りに出されていない、俺の良く知る百瀬の実家もそのままだ。


「鍵か?」

「ああ。俺が持っておくというのもおかしな話だ。閉めてポストの中にでも入れておくか」

「……さくらが帰ってきたら、家入れへんやんか」


 ――あいつが帰ってきたら、か。帰ってくるはずがない。希望は持ちたいさ。だけどその希望はもう彷徨うだけだ。どこにも、容れられない。

 和哉の言葉もあったが、俺は黙ってポストに鍵を入れた。おそらくもう二度と踏み入ることのない場所。ひとつの思い出を作った、とても大切な場所。できることならいつまでも残しておきたいと思うくらいに。

 鍵が落ちる音がし、俺たちは足を進めた。




「これからどないしよか」

「……」


 駐輪場に停めた自転車の鍵を開ける。これから何をするか。何をすればいいかなんてわからない。でも、何もしていない状況というのも好ましくない。


「何か、俺達にできることってあるんかな?」

「さぁな……。どんな命でも、それが俺らの常識とは違うものでも、蘇らせることはできないが摂理なんじゃないか」

「……飯でも食いに行こか」


 夕飯にはまだ少し早い、子どもたちがカラスと一緒に帰る時間。それでも何かしらしていないと落ち着いていられないのは自分でもわかる。気を紛らわせらられなければ、弱い俺の心がもたない。


 自転車を漕ぎながらファミレスに向かう。俺達の家の方角に向かって走ると、嫌と言うほどに見慣れた景色が広がる。たった一駅違うだけで、ペダルを漕ぐ感覚が異なる。


「あ、ここでええかな?」

「ここに和哉と来るのは初めてだな」

「なんや気持ち悪い」

「捉え方の問題だ」


 なんの変哲もないただのファミレス。家から割と近く、学校帰りに寄ったこともある。百瀬とも、何度か。

 大して腹は減っていないのだが、ここなら気分も落ち着くかもしれない。メニューを開き、とりあえずドリンクバーを注文した。


「……なぁ、夏樹」

「ん?」

「さくらの葬式って……やるんかな?」

「……する者がいないだろう。家族も親戚も、もう誰もいないのだから。それに両親の時と違って遺体もない」

「……ホンマに……死んだんかな……」

「……」


 沈黙。静寂。他の客の大きな声も店員のマニュアル言葉も響いているはずのこのホールが、嫌に静かに感じる。席を立ってドリンクバーに向かうと、カップを手に取った。


「事実は小説よりも奇なり……。だけどこれはまるで小説だ。ファンタジーな出来事が、小説のように始まって小説のように終わった。百瀬がここにいたということは紛れもない現実なのに」

「……俺らになんか言うてくれてもよかったんちゃうかな」

「抗う気はなかったんだろうな……運命に」

「運命……か。認めたくないねんけども」


 受け容れる。認める。それは一見単純なようで、実は複雑なものなんだ。それをする為に用意しなければならない覚悟がある。時間がある。何もできないまま、ただ起こった現実を受け入れろだなんて俺には無理だ。でも、受け入れなければならない。認めなければならない。

 カップにコーヒーを入れ、砂糖を取って席に戻る。


「和哉。ここに砂糖があるだろう」

「ん?あ、あぁ」

「ここには確かに砂糖があるんだ。誰がどう見ても砂糖。疑いようのないただの砂糖」


 細長い紙の袋の端を千切り、砂糖をカップの中に入れる。


「この中で混ぜてしまえば、もうここに砂糖はいない。影も形もなくなってしまう」

「……」

「俺たち人間は知っている。暖かいコーヒーに砂糖を入れれば溶けると。だが、知らない人間はどうだろう。今までその現実を目の当たりにしてこなかった人間がいたとしたら、こんなことでさえ非日常的な事由になりえるんだ」

「……そやな」

「俺は知らない。こんな現実を。人一人が桜の木と共に死んでしまうこの現実を。でも、人間は新たな事実を受け入れることで知識を蓄えていき、経験を得る。だから……」

「理屈はええねん」


 ハッとする、とはまさにこのことだろう。自然に言葉が途絶えた。言葉が途絶えると共に、自分の唇の震えを認識した。


「人一人いなくなったら悲しい、泣く。これでええやん」

「……」

「理屈に理屈で返すなら……砂糖かて味は残る。ここに砂糖があったていう、証が残るやんか」


 和哉は悲しそうな笑顔でそう言った。無理に笑ってる。誰のために。少なくとも、自分だけの為じゃない。それだけはわかる。

 視線の先で客が扉を開け、電子音が響く。どこかで見たことのある顔だ。田舎じゃこういうこともよくある。


「味を残す前に砂糖はカップに注がれた。注ぐという過程と、溶けるという原理を知ればもはや常識でしかない。でも、俺はその原理をまだ受け容れられない……。どうして、何故なんだと」

「……理解せんと受け容れられへん。俺もそうなんやけどな」


 原理や過程を受け入れたところで、この結果を受け入れることができるのだろうか。理屈を理解したところで、結果を遮断し、思考を中断してしまったら……。

 脳に霧でもかかったようだ。何を考えているのかもよくわからない。


 コーヒーを一口飲もうとカップを持ち上げたとき、先程入店してきた客がこの席の側を通った。その顔に見覚えがあるというのも当然のことだろう。

 雨の中、あの工事現場で喚いた自分を通報した現場監督らしき人物と同じ顔。あの時とモノは違うが、同じ作業着姿。とてつもない偶然だが、半狂乱の自分を見られたことを思うと、気付かれたくないと思うのが自然だろう。俺は首を折って視線を落とした。


「どないした?」

「あ、ちょっとな……」


 顔を伏せた。謝らなければいけないのに、工事の邪魔をしたことを。予定を狂わせたことを。だがそれを今すぐにできるほどの余裕は俺になかった。


 --予定? 邪魔? 中断?

 先ほどそこを通った現場の人間を探し、もう一度姿を確認し、警察署に迎えに来た母親の言葉を思い出す。


「……おい和哉」

「ん?」

「百瀬のあの手紙に描いてあったんだ。『明後日には消える』と」

「あぁ……」

「工事は今日で、何故遅くとも明後日なんだ?」

「……切り倒されてから、命が尽きるまでに一日程度の時間が必要とか?」


 そう、きっとそうだ。一日ほどの間隔が空くとしたら、百瀬は突然教室で息絶えてしまっていたかもしれない。桜の木を取り巻く自然環境が変わったことであそこまで弱っていたのは確かだと思うが、百瀬の両親が現実的な理由をもって死んだことを思うと、消えるようにしていなくなるなんてことはないはず。それに……。


「俺は、あの工事の邪魔をした」

「予定……」

「工事は中断したんだ。桜の木は……まだ残ってる」

「……ホンマか?」


 頭の中に散らばったメモリーを繋ぐと、停止しかけていた思考回路が熱を持って働き始めた。光が見える。できることがあった。


「桜の木を、盗もう」



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