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ピンセット

作者: マコト

 地下鉄のホームに電車が近づいてくる時の、モアーッとした生温かい風が好きだ。       

もっともそれは、風というよりは弾を込めていない紙鉄砲を押したときにできる風圧みたいなもなのだけれど・・・。地上のホームでは決して味わうことの出来ないその人工的な風を感じたいが為に、僕は今の勤め先を選んだといっても過言ではない。

 神戸市営地下鉄・新長田駅。西神山手線と海岸線との分岐点となるこの駅から、歩いて10分程のところに僕の仕事場はある。半年前、コンビニで入手した求人用のフリーペーパーには、市営地下鉄沿線の求人が3件あった。1つ目の薬剤師は、資格がないのでパス。2つ目は金属加工会社で、≪CAD操作できる方≫という条件付き。しかも、正社員で待遇も決して悪くはなかった。  

 でも、就業場所が学園都市駅近くというのが、僕的にはキャンセル要因だった。神戸市営地下鉄は地下鉄といいながら、始発の西神中央駅から僕が住んでいる名谷駅までの区間、車両は地上を走っている。だから、その区間内にある学園都市駅では、あのモアーッを体感することが出来ないのだ。勤め先を選ぶのにそんなことを基準にするなんて32歳らしくないとは思うけれど、通勤時にどうしてもモアーッとした空気の層に包まれたくて、僕は今の会社を選んだ。住宅地のはずれにある会社は、こじんまりと落ち着いている上にとても静かで、民家よりも一回りほど大きな四角くて白いモルタル造りだ。中古パソコンの修理を請け負うその会社の2階の一室で、僕は電気半田を使い、分解され剥き出しになったプリント基板の上に小さなコンデンサチップを取り付けるという作業を担当している。

 縦横各5ミリの正方形コンデンサチップの周りにはL字型の足が、全部で20本付いている。四角いダンゴムシみたいなそれをピンセットで摘まみ、小さな足先が基板の端子からずれないように、糸半田を溶かしながら固定していくというのが作業内容だ。チップが小さいだけに作業にはそれなりの集中力を要する。余計なことなど考えていると、チップの固定位置が微妙にずれてしまい、場合によってはコンデンサの機能を果たさなくなってしまうこともある。

 入社したばかりの頃は、ピンセットで僅か5ミリ角のチップを挟む時の力加減が分からずに、何度も落としてしまったり、斜めにずれてしまったりと、基板に刻印されたパターン上へきちんと置くのに随分苦労した。 基板1枚につき、平均して15個。それを多い日で1日に50枚分もこなすのだから、肩こりと眼精疲労は半端じゃない。3時の休憩を迎える頃には頭がボーッとして、意識もうろう状態に陥ってしまいそうになる。そんなヨレヨレの僕を毎回支えてくれたのが、地下鉄のモアーッとした風と、中学の時、母が僕に伝えてくれたある言葉だった。

 母が酒乱だった父と離別したのは、僕が小学3年の時だった。母に対して精一杯の悪態をつきながらも父が荷物をまとめて家を出て行った翌朝、母が赤く泣き腫らした目で「ごめんな、康之。お母さん、頑張るからな」と、僕を抱きしめたのを覚えている。僕は片親になってしまった侘しさよりも、もうこれで母が理不尽な暴言や暴力から解放されるという安堵と安らぎとを心に強く感じていた。 弁当屋、スーパーのレジ、クリーニング店などのパートをこなしつつ、寝食を共にする母というのは、当時の僕にとって最高にカッコ良くて、輝いている存在だった。       

「僕が大きくなったら、お母さんを世界中の素敵なところへ連れて行ったるから、待っとってな」   僕がそんな生意気な科白を口にする度、母は、                      

「そっか。期待してるでぇ」                                  と、満面に笑みを浮かべて僕にハイタッチを求めてくるのだった。僕にとって、それはまるで温かな繭玉の中にいるような、うっとりとした心地良さに包まれる至福の時だった。多分、地下鉄のモアーッというのは、その感覚に限りなく近いのだと思う。

 中学生になり、カッターシャツを着るようになると、母は僕にアイロンの掛け方を指南してくれた。そして、慣れない手つきでアイロンと格闘する僕に向かって、母はこんな助言をしてくれたのだ。    「アイロン掛けてる時は、何も考えんことや。余計なこと考えてたら、皺がうまいこと伸びきらんからな」                                          

と。

 思春期のややこしい時期ではあったけれど、僕は母のその言葉に逆らわずに気持ちを集中させ、白いカッターシャツの形に合わせながらアイロンを滑らせていった。苦手な英語のことも、バスケの練習がきついことも、同じクラスの片思いの女子のことさえ考えるのを止めた僕は、目の前のアイロンにのみ意識を集中させてみたのだ。結果的に、この一点集中型の無心作戦は予想以上の効果をもたらした。銀色のアイロンが通過した後の、白いシャツが皺ひとつなくきれいに伸びきっている様を確認するのは、この上なく楽しかったし、アイロンを掛け終えたばかりのカッターシャツというのは、春の縁側の陽だまりみたいにほんのり温かくて気持ちいい。そして何よりも、自分の手で仕上げたという達成感というのが何物にも変えがく僕を高揚させた。僕がこの母の助言を今の仕事で活かせるようになったのは、入社後、3週間ほど経った頃だった。何も考えず迷うこともなく、無心にただ目の前の作業に向き合う。単純にそれを実践してみたのだ。すると体から余分な力が抜けて、自分でも不思議なくらい楽に作業を進めることが出来た。作業を終えた後で、僕は基板の上で黒光りする15個のコンデンサチップを見つめながら、働くことの歓びと充実感とをを体の奥深くに感じていた。                           「わぁ。高村さん、メッチャきれいに出来てるやん。一体どうやったらそんなにうまいこと出来るんですかぁ?」                                          

 僕と横並びで同じ作業をしている安藤さんは、僕の前にある修理基板を覗き込んで、しきりに二重瞼の眼を瞬かせていた。

 バツイチで、小2の娘がいる安藤さんは、僕よりも3つ年上でパート雇用だけれど、チップ付けの作業に関しては、僕よりも半年ばかり先輩だった。その安藤さんが、「私にもコツを教えてくださいよ」と、駄々っ子目線で何度も訊ねてくるので、僕は「頭を空っぽにすることです」と、体験談を交えて話した。すると、                 

「へぇ、そうなんや。ていうか、私、アイロン男子なんて初めてやから、すっごい感動ですよぉ」   と、熱い視線で見つめられてしまった。アイロンネタに食いついてきたのは、僕としては予想外だったが、悪い気はしなかった。                              

 結局、僕は彼女のリクエストに抗しきれず、チップ付けの実演をする羽目になってしまった。 安藤さんは「やったー」と叫び、キャスター付きの椅子を僕の真横へ移動させてきた。僕は新しい基板をセットすると、彼女が見やすいように手元を開き気味にして作業を披露した。僕のすぐ隣で僕が操るピンセットと電気半田の動きにじっと見入っている年上女子。柔らかくて熱くて真剣な彼女の視線は僕をドキドキさせた。  

「ありがとう、高村さん。また明日も教えてくださいね」                    

 午後4時になると、安藤さんは僕に手を振り、娘の待つ家へと帰って行った。僕は「お疲れ様でした。気をつけて」と、長い髪が艶やかなその後ろ姿を見送った。心のど真ん中にあのモアーッを感じながら・・・。

 その翌日から、ぎこちない手つきで半田付けをしていた安藤さんは、決して教えるのが上手いとはいえない僕の手先を真似しながら、少しづつではあるけれどチップ付けのスキルを向上させていった。自分よりも年上の女子から頼りにされている──。それは彼女のいない僕の内面に男子としての自信を目覚めさせ、モチベーションを高めさせるには十分な経験だった。しかも、仕事をしながらしっかりと母親している安藤さんのライフスタイルは、かつての僕の母親の姿とダブり、それが僕を切なくも温かい気持ちにさせるのだった。

「明日は娘の学校の参観日やから、午前中だけ休ませてもらいますね」

 小雨の降る水曜日の夕刻、長い髪をかき上げながらそう言った安藤さんの目には、いつになく一人の女としての優しさと、母親としての逞しさとが溢れていた。安藤さんが去った後、仕事場に一人になった僕は、両肩を軽くほぐしてから、改めてピンセットを手に作業を再開した。 

 透明なプラスチックケースからピンセットの先で小さなチップを一つ摘まみあげ、プリント基板の所定の位置へ静かに着地させる。チップの足元に高温の半田ゴテをあてがい、コテ先で糸半田を溶かす時、一瞬薄い白煙が立ち昇る。小さなチップ達は、僕の操るピンセットによって無機質な部品から製品の一部となり、顧客先へと送り返されたそれらは、やがて企業や家庭で何らかの役割を担っていく。僕がこの小さな部屋で行っているこの作業は確実に誰かの為に役に立っているのだ。淡々と作業を続けながらも、いつしか僕は、そんなチップの一つ一つに自分の中に去来する様々な想いを託していった。                

 長年母を苦しめ続けた父への激しい怒り。離婚した後も気負うことなく、自然体で僕に接してくれた母。お互いに結婚を視野に入れながらも、相手の親の承諾が得られず不本意な終止符を打ってしまった僕の恋。派遣切りのターゲットとなって断腸の思いで去らざるを得なかった前の職場。リストラの悔しさと不安とでくじけそうになりながら、ひたすら就活に奔走した日々。面接を繰り返すものの、なかなか採用に至らず、焦る気持ちで眺めた夕日──。

 そんな想いの一つ一つを小さなチップに封じ込めるように、僕は半田付け作業を続けた。  

母は今でも名谷駅近くのスーパーでレジのパートを続けている。「働くのが楽しくてしゃあないわ」 と、満面の笑みを向ける母に対して、僕は子供の頃、母に宣言したあの約束をまだ果たせていないということに、少し後ろめたさを感じている。今の給料で海外旅行はちょっときついかな・・・と。 そこで僕は思い切って計画を変更することにした。4人で食事するというのはどうだろうと、ある時思いついたのだ。4人というのは、僕と母、それに安藤さんと娘の美香ちゃんのことだ。 この計画はまだ、母にも安藤さんにも話してはいない。でも、近いうちに必ず実現させてやろうと一人密かに計画を練っている。頑張っている自分にこういう形で御褒美を贈呈するのも悪くないよなと思いながら。

 終業時間になり、僕は作業机の前で大きくゆっくりと伸びをしてから未作業のチップをプラスチックケースに戻し、電気半田のスイッチを切った。

「今日も一日お疲れ様・・・」心の中で半田ゴテにそう呟き、僕は席を立った。

 タイムカードを打刻して会社の外へ出ると、雨はすっかり上がり、晩秋の夕陽が雲の塊を目が覚めるほど鮮やかなオレンジ色に染めていた。

                                                                                          (終)                           

          

                 

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― 新着の感想 ―
[良い点] 一見苦しそうな仕事。チップの半田付けという仕事が、崇高に見えてくる位のその姿勢と仕事への向き合い方、主人公の人柄にほんわかして、その作業を私も見たい。モアーてした風を感じたいと思ってしまい…
[良い点] よく文章が推敲されていると思います。 情景が目に浮かぶようです。 [一言] 数々の挫折の中、それでも光を見つけて生きていく主人公に共感しました。 続きが読みたくなる作品だと思います。
[一言] はじめまして、立木と申します。作品拝読させていただきました。 読み進めながら、地下鉄のなま暖かい風や、糸半田の溶ける匂い、酔った父親の酒臭い息、記憶の中でそんな様々な匂いが蘇り、それと共に懐…
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