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「言っておくけど」
当然のようについていくわたしとセリスに、フロロは振り返る。
「俺が進んでるのは魔法陣とやらの場所じゃないからな?単にモンスターの気配を避けてるだけだから」
一瞬の沈黙の後、わたしは指を鳴らした。
「逆よ!逆、逆!モンスターに近寄っていかないと!」
それにセリスが続く。
「ああ、そっか、魔法陣からモンスターが現れてるならモンスター達が来る方向に魔法陣があるはずだもんね」
「そういうこと!だからモンスター達に近づきつつ、見つからないように、っていうのが一番いいわね」
わたしの自信満々の答えに顔を歪めたのはフロロだ。
「簡単に言ってくれるよな。それ、責任者は俺になるんだろ?」
「他に誰がやるのよ」
少し前に合流出来たのは本当にラッキーだった。セリスと二人だったらとっくに詰んでいたに違いない。
暫くブツブツ言っていたフロロだったが、意を決した顔を見せると耳を動かす。今度はかなり長い時間、そうしていた。水の音だけでこの轟音だ。簡単に言ってしまったが、改めて考えるとかなり無理難題を押し付けた気がする。
後でちゃんと謝罪しなきゃ、と思ったところでフロロが手を振る。着いてこい、と合図だ。しかしハッキリとした自信があるわけではないのが、ゆっくりとした歩みに現れていた。わたしとセリスも自然と無言になる。
緊張を三人が包む。どの位無言のまま歩いただろうか。ふと疑問が浮かんだわたしは前を行くフロロに問う。
「何か、ぐるぐる回ってない?」
振り向きたフロロの顔に『気付かれたか』と書いてある。……なんか嫌な予感。
「……追いかけられてる」
はあ?と口にしそうになる。が、言葉の意味に気付き背筋が寒くなる。
顔に打ち付けるような感覚になる水音に紛れて、ヒタヒタと忍び寄る魔物の足音が聞こえる、そんな幻聴に囚われる。
「何とか……撒くとか」
セリスの乾いた声にフロロは首を振る。
「分かってる、撒いて、そのまま目的地に着きたいんだけど見つからねー」
最後は呟きに近く、何とか聞こえる程度だった。水音よりも自分の心臓の音の方が大きくなってきた気がする。
何度目か分からない角を曲がった時だった。更に奥の曲がり角から漏れる光に気が付く。三人共に体に緊張が走るのがわかった。自然と顔を合わせて頷き合う。二個目の魔法陣を見つけた!と駆け足になった時だった。
「きゃー!」
セリスの悲鳴と重い破壊音。体にのしかかる風圧と視界に映った血塗られた棍棒に足が動かなくなってしまった。
ガリガリと不快な音を立てて壁の表面が削り取られる。素手でそれをやってのけたのは目の前に立ち塞がるオークだった。抑えきれない興奮と破壊衝動が荒々しい鼻息に現れている。
逃げなきゃ、逃げなきゃ!普段は身を守ってくれる戦士達はいない。どうして魔法で戦う、というような練習もしてこなかったんだろう、という今更な後悔が押し寄せる。そんな場合じゃないのに。
ヘクターの顔、それにソードを構える後ろ姿が思い出してじわりと涙が浮かぶ。なんて情けないんだろう。
オークが叫び、獲物を見つけた喜びに震える。棍棒を構え直す姿にわたしは尚も体を動かせない。
「こんにゃろー!」
呪縛を破ったのは仲間の声だった。フロロが掛け声と共にオークの背中に飛びかかったのだ。小山を駆け上るように肩に手を掛けると耳の辺りを切りつける。
「早く行けー!」
再び叫びながら、今度はオークから飛び降りる。
奇声を上げながら痛む箇所を押さえるオークの、ハッキリとした標的が決まった。狂ったように棍棒を振り下ろす。
何度か軽いフットワークでそれらを避けると、フロロはわたし達とは逆の方向に走り出す。
囮を引き受けてくれたのだ、そう理解すると共にわたしはセリスの腕を取り、光の方向へ走り出す。
「おチビちゃん!」
セリスの心配そうな悲鳴にフロロが答えた。
「後で落ち合おうぜ!」
遠ざかりながらの声に胸が痛くなる。きっと、いやフロロなら絶対に大丈夫。あんな力だけで動きの遅そうな魔物なら軽く撒いてくれる!自分に言い聞かせながらわたしは走った。
「ここよ!」
光が強く漏れる角を曲がる。そこは教室程の部屋になっていた。壁に水路のスイッチと思われるものが幾つかある。明かりの元は四方に設置された魔唱石のライトだったらしい。しかしそれらよりもまず目を引くのは部屋の中央に漂う空間の裂け目だ。空き家で見たものと同様、不気味なオーラを放っている。長く観察することを本能が拒否している、そんな気配。
「あった!あったわ!」
セリスの声もさすがに普段の呑気さは無い。頷き合うと二人同時にチョークを取り出す。必死に先ほどの魔法陣の形態を思い出しながら床に這いつくばる。
手が震える。恐怖と興奮、それに不安。投げ出したい程の不安なんて初めてだ。
失敗したら?フロロは無事?わたしに……ヴェロニカと同じ事が出来る?
「落ちこぼれのくせに」
セリスの声にわたしは顔を上げる。視線は床のまま、魔法陣を書きつつ眉間に皺寄せるセリスの姿があった。
「……落ちこぼれのくせに、どうして全部自分でやろうと思うのよ」
セリスの言葉にわたしは頬を殴られた気がした。そうだ、何故かどこかで自分中心に考えている自分がいた。
それは自信過剰だからじゃない。自分本位だからだ。それに気がついた時、わたしは頬が赤くなるのを感じた。
「一人で焦ってるんじゃないの。ここは私がやるから。術具の扱いは私の方が得意だしね」
そう言いながら立ち上がるセリスにわたしは頷く。セリスの持つ杖の魔唱石がキラリと光った。
彼女の美しい口元からマナを呼ぶ呪文が始まる。集まり出したマナで構成されるオーラが術者であるセリスを覆う。詠唱中に起こる現象だがここまでハッキリとしたものは珍しい。これも杖の力なんだろうか。
『ディスペルマジック』
杖の一振りと共に呪文が完成した。間を置かずに空間の切れ目が動き出す。もがき苦しむ生き物のようだ。
部屋が元の姿を取り戻す。異世界への扉が消える瞬間、ちらりと魔物の手がこちらに伸びるのを見た気がした。間一髪というやつか。
ふう、と息つくセリスにわたしは拍手する。思わず出た「お見事」の声に、セリスは少々照れ臭そうだ。
「ありがと、……さ、早く行かなきゃ!おチビちゃんを助けるのよ」
立ち去ろうとするセリスにわたしはまた声を掛ける。
「セリス、ありがとう」
一瞬の間の後、セリスからビンタが飛んできた。
「イヤーね!私とリジアの仲じゃない」
バチコーン!という景気のいい音に似合わない台詞。わたしは痛む頬を摩りつつ苦笑いで応える。悪気はない。悪気は無いのだ、このお嬢さんには。
相変わらずけたたましい水音を浴びながら外へ向かう。途中でフロロに会える事を期待したのだが、残念ながらそれは叶わなかった。
「このまま表に出ていいと思う?」
オークによってマンホールを吹き飛ばされた下水道の入り口を指差し、セリスが振り向く。わたしは頷いた。
「……次へ向かうべきだと思う」
フロロが気にならないと言えば嘘になる。でもわたし達は向かうべきなのだ。フロロもきっと怒らない。むしろ彼を信用しないで下水道を彷徨う方が怒られる。
よし行こう、と梯子に足を掛けて上を向いた時だった。入り口に浮かぶシルエットに悲鳴を上げた。丸い空間にこちらを覗き込む顔。逆光でよく見えないが鋭い目つきがこちらを睨んでいるのだけは分かった。
わたしの悲鳴に肩を強張らせていたセリスだったが、上を指差し口を開く。
「……アントンじゃない」
はあ?とわたしはもう一度上を見上げる。見えにくいのは変わらないが、嫌そうにこちらを睨む顔に見慣れた緑頭はアントンだと分かる。
「たまに甲高い声出したと思ったらうるせー女だな。だっせー、落ちたのかよ」
この憎まれ口にムッとしつつも安心してしまう自分がいる。非日常の中に自分を取り戻せた感覚だ。
続けてアントンの顔の横に現れたもう一つの顔に、わたしは再び悲鳴に似た声が出る。
「ヘクター!」
「大丈夫?怪我はない?」
心配そうにこちらを覗き込む顔にわたしは慌てて首を振った。
「大丈夫!落ちたわけじゃないから」
「いいからとりあえず上がるわよ!」
こちらの返事を待たずに梯子を駆け上がるセリスに、わたしも続く。表に出て迎えてくれたのは開放感ではなく、むわっとした熱気だった。火の手が広がっているのかもしれない。
アントンとヘクターの後ろに倒れた魔物の姿がある。先程出て行ったものかは分からないがオークだ。背中にある斬られた跡からして、彼ら二人の手柄だろう。
「そ、そうだ、二人ともフロロ見なかった?」
わたしの質問に顔を見合わせた後、二人とも首を振る。
「見てないけど……一緒だったの?」
ヘクターに聞かれ、わたしは頷く。どこから話せばいいのやら。今にも魔物が出て来そうで混乱する頭をどうにか回転させ、わたしはヘクター達に今までの経過を話した。城でヴェロニカに頼まれた魔法陣の消滅、フロロと合流できたこと、二個目の魔法陣を消すことは出来たが、フロロが囮になった為にはぐれてしまったこと、をだ。上手く話せた自信は無かったのだが、ヘクターは何度も頷いてくれた。そして口を開く。
「よし、探そう」
その言葉にホッとして、肩の力が抜ける。
「どうでもいいけど二人だけ?」
セリスの声には少し不満の色を感じる。現れたナイトがこの二人では不服なようだ。
「二人一組で回ってたんだ」
ヘクターの短い答えに、
「ジャンケンで負けたんだよ」
アントンの不機嫌な声が続く。負けてこの組み合わせになった、と言いたいようだ。酷い言い様だが、言葉に今までのような棘は感じなかった。
少し話し合った結果、とりあえず三つ目の魔法陣に向かうことにした。ヘクター達も着いてきてくれるという。これでまともに動き回れそうだ、とわたしとセリスは大きく息を吐いた。
「で、三つ目の魔法陣はどこにあるの?」
セリスの問いにわたしは手元の地図をみんなに見せるように広げた。
しばらく四人、無言で地図を眺める。
「何だよこれ、きったねーな」
なんだか既視感のある台詞を吐いたのはアントンだ。その彼の頭をセリスが叩く。
「あんたの字の方が汚いわよ」
「俺のは汚くても読みやすい!これは何書いてあんだかわかんねーじゃねえか」
「汚なかったら読めないわよ!」
言い合う二人の間にわたしは手を滑り込ませた。
「ケンカしてる場合じゃないわよ!とにかくこの印の地点に行ってみましょう」
わたしが指差したのは現在地の南西、城の真南に当たる場所だ。逆五芒星の一番下になる部分だ。二個目の地点と同じく乱雑な丸でポイントが示されているのだが、問題はその横にあるメモ書きだった。わたしは地図にある「+」とも「×」ともつかない文字をなぞる。
「バツ印?……『極めてデリケートな問題になると思われる』どういうこと?」
当たり前だが答えられる者もいない。とりあえず行くしかないか……。
「何かトラブルの匂いがプンプンする注意書きね。……まあこんな混乱の中でこれ以上の問題も起きそうにないと思うけど」
セリスの呟きには同感だ。でもわざわざこの地図に書いてある、というのが引っかかる。この混乱の中に使用する、ということが分かっている上での注意書きなのだ。
「こっちはあんまり行かない方だな……、役所とかあったと思うけど」
ヘクターも地図を見て眉を寄せている。お店があったり商店街になっているような賑やかな場所とは違うということだろう。まさかお役所に堂々と魔法陣が張ってある、なんてことは無いだろうが……。
「デリケートな問題、ってことはあり得る……?」
首を捻るわたしの肩をヘクターが叩く。
「行ってみよう」
その声と微笑む顔に、俄然やる気が出てくるわかりやすい自分がいた。
「その前に片付けるぞ」
アントンがカタナを抜く。思わず身構えて見た視線の先、路地裏の入り口に口元をぬらぬらと光らせる巨体があった。煙の臭いに負けない強い悪臭に鼻を押さえる。瞳のある部分には色の無い闇の広がるだけだ。見ているだけで不安になる。
顔、ダラリと下ろした腕、曲がった胴体、木の幹のような足それら全てに血の気がない。民家の屋根まで届く背丈に脈打つ筋肉。灰色掛かった肌を全て露出しているというのに生き物らしさが感じられないのだ。