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「曇ってるわ」
窓辺に立つローザがカーテンをめくり、眉を寄せた。つられて隙間から見た空の様子にわたしはぎょっとする。
「向こうの方でクラーケンの召還でもやってるみたい」
わたしの出した大海原に住む精霊の名前に、ローザも頷く。今日の空は単なる曇りでなく、厚く不気味な雲が大きな渦を作っていたからだ。
朝早いわたしの部屋、服を選ぶ為にローザに来てもらったはいいが、元々大した服を持ってきていないので途方に暮れていたのが吹き飛んでしまった。
「あの美しい王妃様のお誕生日に相応しくない天気だわねえ」
残念そうに呟いた後、ローザはこちらを向く。
「そうだ、思い出した。王妃様のことなんだけど、気づいたことがあったのよ」
ローザは「いまさら、って言わないでね」とベッドに座る。
「あたし、お城の料理長さんとお話してきたでしょう?その時聞いた話しが『王妃は日によって好き嫌いが変った』」
そこまで聞き、わたしは髪の毛を結い上げる手を止め、彼女に向き直る。
「そうだった、そうだった」
身を乗り出すわたしにローザは続ける。
「次にあたしが不思議に思ったのが、お城で既に誕生日会の準備が始まってたでしょう?王妃の好きなお花をたくさん飾り始めてて……『今年はチューリップです』って聞いて。『今年は』って」
ローザの言わんとすることが飲み込めてきたわたしは、恐怖心ではない別の、何か得体の知れないものによってぞくりとする。
「気が多い方なのかしら、って思ったんだけど、そうじゃないのよ。彼女、きっと人格が不安定になり始めてる。あたしもヒーラーの端くれだもの。少し精神的な病の事も勉強してるんだけど、人格に異常を来すのに多い理由が」
一度、切るとカーテンの外を見て、またわたしの顔を見る。
「大きなショック」
ローザの声を聞き、様々な思いが胸を駆ける。でもそのどれも言葉にはならずにしくしくとした痛みだけ残して消えていった。ローザはそんなわたしの様子をしばし見つめ、ほうと溜め息を漏らす。
「それでね、あのヴェロニカ宮廷魔術師って魔術のどの分野も飛び抜けてる天才らしいんだけど、彼女の本当の専門分野って精神世界の研究なんですって」
「じゃあヴェロニカが診てあげればいいんじゃない」
わたしの言い方に少し刺を感じたのだろう。ローザは一瞬、目をぱちくりさせた後、くすくすと笑い出す。
「ヴェロニカから少しキツいこと言われたらしいけど、気にしないの!もう少し話してごらんなさいよ。いい人よ?」
キツいのは彼女の性格だろう、と言いたくなる。会った瞬間に『厄介者』扱いされたのは忘れないぞ。
「もちろんあたしから、王妃のことをさりげなく言ってみるつもりよ。不思議なのはどうして今まで彼女にかかってなかったのか、って話しなのよね」
「準備出来た〜?」
ローザの話しの途中、扉の向こうからフロロの声がする。二人揃って『はーい!』と答えると、わたしは立ち上がって姿勢を伸ばした。
「お、俺も本当に行っていいのかよ」
馬車の中、もじもじと小さくなる、という似合わないポーズで何度目かの同じ質問を繰り返したのはトマリ。なんとエミールから今日のお誕生日会に彼もお呼ばれしたのだ。しかもブルーノからも『是非に』との言葉をもらったのだから驚き。……といいつつも、多分エミールは純粋に『情報提供のお礼』とお祝いに来て欲しい気持ちだろうが、ブルーノは計算があるのだと思う。すなわち、ある程度の謝礼を渡して『エメラルダ島のことは忘れるように』ということ。
トマリの方も実はとうにそのつもりらしく、わたしに石の玉が渡ってから何も言ってこない。逆に爆発の威力を聞いてビビったのか嫌な顔をする始末だ。
昨日、アルフレートに貸してまた戻ってきたので、今もわたしの手元にある。本音を言うとわたしもそんな恐ろしいもの持っていたくないのだが、扉が開いたあの不思議な光景を思い出すとそんな思いも消えていくのだ。帰るまでには返さなくていけないけどね。
「今にも降りそうだ」
ヘクターが馬車の小さな窓から見つめる空。今にも、というより降っていないのが不思議なくらい真っ暗だ。それに風も出てきたようで木々がざわめいている。車を引っ張る馬達も機嫌が悪いようで、先程からイリヤとフロロが宥める声が聞こえてくる。
わたし達は何かから逃げるよう、追い立てられるように王城へ馬車を走らせた。
城の門を潜ってまず顔を合わせたのは、今日も威風堂々たる姿のイザーク隊長だった。馬車を降りるわたし達の元に、二人の兵士を連れて近付いて来る。
「昨日はご苦労だった」
デイビス、ヘクターと握手を交わしつつ労ってくれる。
「いや、お役に立てなくて……今日はすごいっすね」
デイビスが言うのはお城の様子だ。城門の外も異様だったのだが、中も物々しい。何しろ今までにない兵士の数なのだ。端に居並ぶ兵士達を見て、来賓も違和感を覚えないかしら。
「……国境付近の戦闘は終わったそうだ。今朝、一番に連絡があった」
ぐっと低くなる隊長の声に緊張が走る。もう少し細かい話しを聞きたいが、ここだとそうもいかない。
全員が降りてファムさんが馬車を運ぶよう、小間使いの少年に声を掛ける。その様子を前に隊長がトマリを指差し、わたしに『彼か?』と口を動かす。わたしが頷いた瞬間、二人の兵士がトマリの腕を取った。「ひっ」というトマリの悲鳴が上がる。
「大変、重大な情報を提供されたトマリ殿と見受ける。貴殿にはもう少しお話を窺いたい」
隊長の丁寧な言葉を受けてもトマリはパニックになる。じたばたと暴れて汚い暴言を吐き始めた。そこへアルフレートが近寄る。トマリの肩に手を掛け、にっこりするとつられてトマリも動きを止める。
「本当に話しを聞くだけだろうと思うね。それに大人しく協力する態度を見せれば見せる程、寛大な処置を取ってもらえるとは思わんかね?」
ひそひそと耳打ちされるアルフレートの声にトマリは考える顔になる。
「でももう追加の情報なんてねえよ。あんたらに言った話しで全部だ。取引する駒がねえよ」
それに答えたのはイザーク隊長だ。トマリの肩に親しげに手を掛け、彼を歩かせる。
「そう、同じ話しを我々の前でもゆっくりしてもらえばいい。新たな記憶の切れ端を思い出すかもしれん。無くても貴殿を責めたりする人間はいないさ」
「ほんとにぃ?」
トマリの気持ち悪い甘え声と共に、隊長達は去っていく。その光景を見ながら、わたしとローザは顔を合わせて同時に肩をすくめた。
一騒動が終わり、改めて回りを見るとわたし達以外の招待客もぞろぞろとやって来ていた。
「やだ、本当に貴族の集まりって感じ」
セリスが芝生に立つ綺麗なドレス姿の婦人を眺めながら目を大きくする。わたしと同じように普段着のワンピースに少々のアクセサリーという格好の彼女だが、なんというか元のスタイルといいオーラといいわたしとは出来が違う。わたしのいかにも「急ごしらえです」という姿に比べて、随分様になっているのが悔しいではないか。
しかし他のメンバーは普段通りの姿だったりする。神官二人はいつも正装のようなものだからいいとして、盗賊二人や防護ベストを着込んだファイター達は明らかに浮き始めていた。案の定、横を通る貴族、貴婦人達のわたし達を見る目は好奇心に溢れている。中には露骨に嘲笑混じりの視線を送ってくる女性もいて参ってしまった。
「んだよ、感じワリい」
アントンの舌打ちを聞いて、更に冷たい視線が増える。それを打ち破ったのは聞き慣れたよく通る声だった。
「よく来てくれた」
城に初めてやってきた日と同じ言葉で出迎えてくれたのは、見た目麗しい異種族ブルーノ。彼が登場しただけでこの場の空気が一変してしまうのが面白い。
「このような場は不慣れだろう。私が会場まで案内する」
わたしがほっとしたのはブルーノの雰囲気が随分打ち解けてきたからだけではない。周りの貴婦人達の表情が明らかに変る。そうだ、ブルーノってこの国中の女性に大人気って話しだっけ。
ブルーノに注がれる羨望のまなざしのおこぼれを頂きながら、わたし達は城内へと入っていった。
学園の演習場ぐらいありそうな大きなホールに、ざわざわと浮き足出す声が響く。色とりどりのドレスが並ぶ様は単純に美しい。男性も今日は少々派手な服装が多いように見える。中央に一本通る通路を除いてテーブルが配置され、その上に並ぶグラスを取っては来賓同士、おしゃべりを始める。今日は浮かれるための一日なのだ、と全員が理解して動いているように感じた。
早めにやって来たと思ったのだが、わたし達はかなり遅めの入場だったようだ。周りはすでに今か今か、と奥にある壇上に視線を注いでいる。その壇上に並ぶ二つの絢爛豪華な椅子は、きっと国王夫妻のものだ。そこに座る二人と思い浮かべた時、前からわたしを呼ぶ声がした。
「リジア!」
ぱたぱたとやってくるのはエミール。もう既に挨拶回りに忙しいようで、額に薄ら汗をかいていた。わたし達の前にやってくるとにっこりと笑う。
「長らくお待たせしました。ようやく今日という日を迎えることが出来ました。ふふ、どうか楽しんで行ってください」
はにかみながら言った後、少し躊躇する様子を見せたがそっとわたしに耳打ちする。
「あの、気を悪くしないでください。言ってくれればドレスを用意したのに」
うん、そう言うだろうから黙ってたの、とは言えない。でもここで借りる衣装なんて、キンキラキンで絶対似合わない自信あるし。
ただわたし達が浮いていようと正装を避けたのには理由がある。今日、必ず何かが起きる。しかもそれは火花散らせる状況だということが可能性としては高い。相手は黒鼠になるのか、それとも違う何かなのか。どちらにせよ、わたし達は出来る限りイザーク隊長の手助けをしなければいけないのだ。
自然と周囲を観察する動きをしてしまう。かなりの大人数だ。パニックにならないといいけど。そう考える間に、脇にいる紫で全身を包んだ老貴族の婦人がご機嫌にグラスを鳴らした。いい気なもんだ……なんて思っちゃいけない。
次の瞬間、わたしは心臓が跳ねる。視線の先に壁に寄りかかるレイモンがいたからだ。彼の方もこちらを見てさわやかに微笑んでいる。そう、憎らしい程、余裕を見せていた。昨日のあれはなんだったのか、と思う程に取り乱している様子はない。隣にいるのはいつもと変わりない様子のアルダ。この華やかな世界で一際目立っている美貌とオーラ。その外見故に既に周りには男性……のみならず女性にも囲まれている。その周囲に笑顔を振りまきつつ、少し面倒そうに、気怠そうにしていた。これも普段と変らない。
無意識に奥歯を噛むわたしの元、もう一人の視線が降り掛かるのに気づく。その元を辿るとまたどきりとする。白い神官服の隙間から黒いローブが覗く女性。頭部も黒髪を床まで届く長い白の布で覆っている。
「ヴェロニカ?」
わたしは思わず彼女の名前を口にしていた。宮廷魔術師である彼女がこの場にいるのは、何も不思議はないことだ。でもなぜわたしを見ているのだろう。そして嫌な予感が襲う。
まさか、まさかのまさか、ヴェロニカがレイモン達の協力者ってことはないわよね?わたしの背中を嫌な汗が伝わる。
いやでも十分考えられることではないか。レイモンの父ユベールを病床から救ったのは彼女だという話しだ。そして噂だと王太后に代わる後援者を探している、という。レイモンが王になれば彼女も美味しい思いをする、という手はずが整っていたとしたら?だからヴェロニカは王妃を診ていないのかもしれない。
もしこの推測が当たってたりしたら、レイモンはものすごい強力な味方をつけていることになる。それだけじゃない。サントリナ一の腕を持つ魔術師が、敵として既に城内に入り込んでいるということだ。
単なる憶測よ……と頭を振ろうとした時、レイモンとヴェロニカが目線を合わせたのに気づいた。そして背後から音がする。ホールの扉が重々しい軋みを立てながら、しっかりと閉まった音だった。