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どうにかこの状況を打開しなければ、と思ってもうめき声しか出てこない。恐怖のためでもあるが、状況を理解できない混乱のせいだと思う。
掴まれたままの自分の右腕と王妃の顔を見比べた後、視線が下がる。彼女に初めて会った時に息を呑んだ美しいドレス——上等の絹と美しい総レースの布が見事に重ね縫われた物が雨水で台無しになっていた。
いくら「馬を乗り回すのが好きなお転婆」でも、これはちょっと異常だと思うんだ。というより城内の兵士を始め、これを見て気にも留めない周りの反応が怖い。
その時、ふとわたしの頭に思い浮かぶ事があった。
そうだ……エリーザベトは乗馬が好きだって話しを、何度も何度も聞いたんだった。そしてアルフレートが突然言い出した、イザベラの家族が死んだ事故の原因。
たしか『ルカー』とかいう薬草があって、『馬を含めた大型の動物はこの植物が生える場所に行くと激しい興奮状態になるらしい』なんて話をしてたんだった。
夏の季節には、この薬草が生える場所に馬を連れて立ち入らない、っていうのは普段から乗馬をやる人なら常識……とか言ってたっけ。
エリーザベトの顔を改めて見る。虚ろ、とも思える瞳があった。半笑いの口元がだらしない。その顔を見て尋ねるべきか躊躇する。今の彼女の状態を見れば、質問によってはこっちが危害を加えられないとも限らない。しかしこのままでは冷たい手がわたしの腕を放す事は無いように思えた。乾いた喉を震わせるとわたしは王妃に喉に留まっていた言葉をぶつける。
「イザベラの家族にトットムール平原へ行くよう勧めたのは貴方?」
これを聞け、とアルフレートはわたしの背中を押したんだろうか。しかしエリーザベトは答えない。単純に何の事か分からないのか、『黙秘』ということか。わたしとしても、どう考えても普通の状態ではない王妃が嘘をついているのか、何を考えているのか全く窺えない。
「じゃあ……貴方は何故、悪い子なの?」
これにもエリーザベトは答えない。と思ったのだが薄っすら笑ったような顔のまま「レオンが……」と呟いた。それを聞いた瞬間に呪縛が解けたようになる。
「レオン!?レオンがどうしたの!?」
先程までの恐怖が抜けて、わたしは王妃の手を取り詰め寄った。一瞬、顔を強張らせる彼女に嫌な予感がする。
「レオンを、レオンをサイヴァ教団に渡したのは貴方ね?」
自分でもなぜこの質問が口に出たのか分からない。でも一瞬の戸惑いを浮かべたエリーザベトの顔を見た時に、浮かんでしまった言葉だった。また元の薄ら笑いの顔に戻る王妃にわたしは再び尋ねる。
「な、なんで貴方がそんな事を……?」
わたしの言い方は半ば「違うでしょう?」というものだったと思う。しかし返ってきたのは最も理不尽な答えだった。
「二人もいらなかったから」
不気味な微笑をたたえながら言ったエリーザベトの言葉を聞いた瞬間、怒りで顔が熱くなる。泥だらけで不気味に思えた彼女のドレスも今は欲にまみれた物に見え、正直「殴ってやりたい」と思っていた。手が震える。その感覚に、思いのほかレオンに感情移入していたのだな、と冷静に考える自分もいた。
何か、何でもいいから言葉を繋いでその衝動を抑えようと思い、話し掛ける言葉を考える。「だから悪い子なのか」という繰り返しか、それともイザベラの家族の話をもう一度振るか。ぐるぐると考えた結果、口から出たのは自分でもどうでもいいと思えるものだった。
「ま、魔法使いが悪い子を捕まえに来るの?」
内心、一番引っかかっていた台詞だったのかもしれない。子供じみていて気味が悪いと思ったのも事実だ。
「……ブルーノが言ってたもの」
「ブルーノが!?」
意外な名前が飛び出したことでわたしは思わず声が大きくなる。王妃の顔が一気に強張ってしまった。少ししまった、と思った時だった。
「エリーザベト様」
脇から静かな声が掛かる。落ち着き払った声の主――ファムさんが廊下に立っている。心なしかライトに照らされた頬は青白い。そのままわたしと王妃の元まで歩いてくると、慣れた手つきで王妃の手と肩を取った。
「さあエリーザベト様、もうお休みいたしましょう」
ファムさんの優しい声に王妃も彼女の手を取る。
「……少し頭が痛いわ」
と首を振る王妃にファムさんはにっこりと笑った。
「温かい飲み物を用意させましょう」
呆気に取られるわたしを置いて、二人は王妃の部屋と思われる扉の中へ入っていく。その廊下の先に立っていた兵士が怪訝な顔でこちらを見ているのに、わたしはアルフレートの術が解けていたことを知った。だから王妃は気づいたのか、それとも……。
がちゃがちゃと金属鎧の擦れる音を立てながら近寄ってきたのは、よく見ればお酒の席にいたブライアンだった。彼の方もわたしを見て思い出したらしく、咎めるというより戸惑った顔で尋ねてきた。
「どうしたんだよ、……王妃に呼ばれたのか?」
後半は『そんなわけはない』という色を強く感じる。さて、どう言い訳したものか、と考えていると王妃の部屋からファムさんが出てきた。
「私に任せてもらえば大丈夫」
有無を言わせない様子で言い切るとファムさんはわたしの腕を引っ張る。ブライアンは一瞬だけ何か言いたげに口を開いたが「そう」と短く答えて持ち場に戻っていった。
腕を取るファムさんに抵抗することなく着いて行き、中庭への扉を開けたところでわたしは口を開く。
「ファムさん、貴方全部知ってたのね」
さりげなく、少しだけ咎める色を含ませつつ尋ねる。ファムさんは黙ったままだった。
自分の部屋に戻るとわたしは無言のままファムさんに椅子を勧める。彼女の方も黙ってそれに従った。いつもと変わりない冷静そのものの顔に、わたしは話し始める。
「ファムさん、貴方が何かを知っているはず、とわたしがさっき気づいたのはね、二日目の晩に廊下から隣りの建物を見た時、貴方もその場にいたからよ」
セリスの部屋に向かう途中、お腹を抱えて笑う王妃をわたしと一緒に見たはずなのだ。そして彼女にはその様子がおかしい、普通ならあり得ないものだと分かっていた。なぜならここの働き手であるファムさんなら城の構造を嫌という程理解しているはずなのだから。
あともう一つ、先程の二人のやり取りを見て、王妃にとってファムさんは単なる使用人の一人では無いとわかったからだ。そしてファムさんにとってのエリーザベトもそうなのだと思う。
わたしが真っ直ぐ瞳を合わせているからか、ファムさんはふっと息を吐くと頷いた。
「今更いい訳を、と思われるかもしれませんが、話していない事は多くあるものの、私はリジア様達に嘘を吐いたことは一度もありません」
「……それも分かってるつもりよ」
わたしも深く頷き返す。ファムさんは少し困ったような顔した。
「ねえファムさん、お願いだから今だけでも『お仕事モード』は止めて、わたしの友達として接してくれない?」
わたしのゆっくり吐き出す懇願に、ファムさんはしばらく迷いを見せていたが、こちらの言いたいことが呑めたらしく頷く。
「わかりました『リジア』……ああ、敬語なのはお気になさらず、癖ですので。私の知っていること、に限らず、意見も混じえた話を遠慮無くさせていただきますわ」
「そう、事実だけじゃなくてファムさん自身が思ったこと、感じたことも混ぜてもらえるとすごく助かるのよね」
どこまでも人の要求を上手く掬い取る人だと、つくづく思う。 満足したわたしはベッドからクッションを取り、抱え込んだ。ファムさんは一度目を閉じ、再びわたしを見てから口を開く。
「私がこの城で働き始めたのは、ご存知のとおり両親の存在からです。身元のはっきりしている私は勤め始めてすぐに、王妃のお世話にあたる十人強の一人になりました。普通は王族とは接点の無い箇所の掃除から始まるものですから、十代は私だけ。少し誇らしい気分でした。それに……エリーザベト様はとても私によくしてくださった。そう、まるで友達のように」
わたしが顔を上げるとファムさんは苦笑する。
「リジアのような接し方とはちょっと違いますけどね。一番若い私に親近感を覚えているような感じでした」
「王妃は、えっと、その……少女時代で止まってしまっているのね?」
一番若いファムさんに執着を見せた、というのがわたしにそう感じさせた。ファムさんは立ち上がり、窓の方へ歩いていく。
「私がお仕えした時にはもうすでにあのような様子でした。ご結婚前から『あの状態』なのか、ここでの生活があの方を壊してしまったのか、私には知り得ないことなんですけども」
ここでわたしは『女帝』の話を思い出す。馬に乗っている方が幸せな女性、か。そういう人間が王族としての暮らしに心を壊される、というのはあり得ることなんだろうか。
ファムさんの顔が再び少々青白いものになっているのに気づく。きっと話しの核心に迫るのだ、とわたしは身構えた。
「ある晩、あの方が子供のように泣いてしまわれて『眠れない』と言うので、暖かい飲み物を運んでいったんです。そのような状態は何度か見かけていたのですが、その日は私の手を取って離さなかった。慰めているうちに、ぽつぽつと話すことがあったんです。『怖い魔法使いがくるわ。私が悪い子だから』と。どう慰めても泣き止まないあの方に、ふと聞いてしまったんです。『何をなさったんです?』」
「それで王妃は、レオンのことを言ったの?」
わたしはごくりと喉を鳴らした。ファムさんは肯定の頷きを見せる。
「『あの子を連れて行ってもらったの、私には何も出来ないから』」
ファムさんの口から出たあどけない喋り口調に少し驚いてしまったが、今のは王妃の台詞だったらしい。
「私はあの方を可哀想だと思っています。お仕えする方に対して傲慢な考えでしょうが、私の正直な気持ちです。でも同時にあの方が好きなんです。いつまでも少女のようであり、気まぐれな妖精のようであり、時には赤子のようにも見える」
「その彼女が自分の赤ちゃんを捨てるとは考えられないってこと?」
「……いいえ、だからこそあり得るのかもしれません。倫理観を学び取る前の子供の方が、大人に比べて残酷なこともあることはご存知でしょう?」
そういう話は聞いたことがある。子供の方が欲求に素直だから、という話だ。しかしこの場合は……、王妃は実際には大人なわけだし、当てはまるんだろうか。
「私はずるいですね」
ファムさんの溜め息と共に出た台詞にわたしはびっくりしてしまった。
「なんで?今の話しを黙ってたことなら本当に怒ってないよ?」
「いえ、保身に走りました。仕事や立場の話ではなく心の問題です。誰よりも真相を知りたがっていたくせに、あの方を思うと動けませんでした。だから、リジア達を利用したのです」
なんとも正直なファムさんにわたしは思わず笑ってしまった。一緒に微笑んでいたファムさんの顔がいつものきりりとしたものに戻る。
「さ、リジア、まだまだ重要な問題がたくさん残っています。レオン様の話しも、問題は『なぜなのか』なんですよ」
「あー、それね……」
わたしの気分は重い。何しろ本人から先程『二人もいらないから』などというふざけた答えを貰ったばかりだ。
「本当だと思います?信じますか?」
そう聞かれてもわたしには分からない。でも付き合いの長いファムさんが懐疑的なのだから、そうじゃないんだろうか。
「私は信じません!理由もきちんとございます。私は勤める前なので存じ上げないですが、母が言っていたんです。エリーザベト様は双子の王子を溺愛していたと。乳母もおかなかったくらいですから」
「へえ」
お貴族様は自分で子育てしないのが一般的、というくらい一般人の中の一般人であるわたしも知っている。でもエリーザベトは自分で子育てしたわけだ。溺愛、といわれるのも頷ける。
「でも……エミールの話しを聞いた時は、そうは思えなかったんだよねえ」
わたしの言葉にファムさんは首を傾げるが、本当の気持ちだ。エミールから両親の話しを聞いた時、母親の影が薄い……というよりほとんど無いな、と思ったのだ。
「ん?でもファムさんも過去形なわけね。『溺愛していた』って」
「……鋭いですね」
ファムさんはすっかり元に戻った様子で、くいっと眉を上げてみせた。