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約束の時間になり、わたしは部屋を出る。惜しみ無くライトで照らされる廊下を抜け、表に出ると普段以上に大きく見える月があった。
今日は夕立も無かったので気温も高いままだ。乾いた空気が肌を撫でると水分を持っていかれるような気分になる。
薄暗い中庭、上から見ると円の形をした花壇の縁にちょこんと座るエミールの姿がある。いつか見た天使の油絵を思い出した。そう、彼にはまだ性の匂いが無い。こちらに気付いてにこりと笑う顔は赤ちゃんみたいに純粋だ。
「あと数日で帰ってしまうんですね」
隣りに座ったわたしを見ることなくエミールが呟いた。そうか、長い滞在だなあと思っていたのはわたし達の方で、エミールは寂しいんだな。
「申し訳ないな、って思うくらい良くして貰ったからありがとうね。いつかわたし達の方がエミールを招待出来ればいいんだけど」
「気持ちだけで嬉しいですよ」
エミールの返事はそう簡単には事を運べないのを分かっているもので、可哀想になってしまった。もう少し言葉を選べば良かった。
ふと顔を上げたエミールが空を指差す。大きい分、煌々と辺りを照らす月を見上げた。
「せっかく晴れたのに満月じゃないですね。少しだけ欠けてる」
エミールの言う通り、満月には少し足りない。言われてみれば、ぐらいだけれど。エミールが「いつもそうなんです」と漏らした言葉の意味が分からずにわたしは首を傾げる。すると突然、エミールが立ち上がった。慣れた仕草でマントを翻し、わたしの前にすっと跪く。真っ直ぐこちらを見上げる顔に思考が停まりそうになる。
咄嗟に何してるの!と咎める為、息を呑んだ。が、エミールに手を取られる。
「リジア、僕と結婚してくれませんか?」
こちらを見る綺麗な瞳を眺めてしまう。言われた言葉の意味が分からずにひたすら翡翠色の丸い目を見続けた。
今、何て言ったんだろう、この子。何言ったか分かってるのかしら。というか結婚の意味分かってるの?……って結婚!?結婚だとう!?
「ち、ちちちちょっと待って!!」
喉の感触で自分の声の大きさに気付き、慌てて辺りを見渡す。建物の窓にちらりと侍女の影が映り、どきりとするが真っ直ぐ歩いて行ってしまった。
エミールもびっくりした顔をしていたが、直ぐに真顔に戻る。そ、そんな真っ直ぐな目で見ないで欲しい。
わたしは自分の隣り、先程まで彼の座っていた部分を叩き、座るよう促した。それに従う姿を見届けると、掠れた声で答え始めた。
「け、結婚っていうのは、自分達の気持ちだけじゃない事だと思うの」
苦し紛れに搾り出した台詞に自分で慌てる。いかん、これは違う。ずれている。
しかし寸前まで「もしかして告白受けたりしちゃうのかな~」なんて事は予想していたというのに、プロポーズとは。色々すっ飛ばし過ぎてて何から伝えていいやら。
「……あのね、エミール」
ふう、と深呼吸すると頭が冴えてきた。様々な言葉が浮かんでは消えていくが、隣りにいる肩の細い少年にはなるべく正直に答えようと思う。
「エミールのことは好きか嫌いか、で聞かれると好きなんだけど、異性としてどうですか?ってなると答えられないんだ。それは答えづらいんじゃなくて本当に分からないのね。年齢のこともあるし、失礼かもしれないけど、王子様なんてわたしにとっては遠い遠い世界の人だから」
エミールがゆっくりと頷いた。自分でも正直過ぎるか?と思うが、これでいいのだと無理やり納得させる。
「あのね、わたしにとってもエミールは大事な人だからなるべく傷つけたくない、傷ついて欲しくない、って思うのね?でも……今の気持ちには応えられない」
答えが半ば分かっていたのだろうか。エミールは顔を歪めるといったことも無く頷いている。
「正直に言わせて貰えばせっかく仲良くなれたんだから、このままでいて欲しいと思う。でもエミールが『結婚してくれないなら無理』って思うなら、わたしはそれに合わせるよ」
暫く沈黙が続いたことでわたしの話しが終了したと思ったのだろう。エミールはふ、と視線を落とした。
「……リジアは真っ直ぐなんですね。きっと、貴方が自分で思っている以上に真っ直ぐですよ」
わたしはそれを聞いてうっと詰まる。褒められているようでそうでないような。それにこの台詞で何だかエミールが大人に見えてしまった。
「でも、伝えて良かったです。そう思わせてくれてありがとう」
エミールの言葉はわたしを一番ほっとさせるものだった。本心かは分からない。でもそう言ってくれて良かった。
普段の無邪気な顔に戻り、わたしに手を振りながら建物に入っていくエミールを見送る。
正直に、と言いながらエミールには伝えなかった言葉がある。彼の周りには同年代の子がいない。若い侍女もいるがそれでもわたし達より年上だ。本殿以外で子供といっていいような年頃の子もいたが、彼らは王族とは触れ合わないようになっているに違いない。
だからわたし、いやわたし達が新鮮に見えたんじゃないかな、というのが正直な気持ちだ。でもこれは言わない。だってわたしが言われたら嫌だから。彼の中でわたしは美人で、優しくて真っ直ぐな、わたしの中でのヘクターと同じくらい完璧超人なのだ。
偉そうに語りたくないが、いきなり『結婚』の言葉が出たのは救いを求めていたんじゃないだろうか。この城から出たいんじゃないだろうか。今更思いついてもやもやしてくる。
爪を噛みそうになるわたしを止めたのは草を踏む音だった。反射的に振り返るわたしに会釈してきたのはレイモン、それに妖艶なる美女アルダ。
「やあ、一人で散歩?」
レイモンが軽く手を挙げながら尋ねてくる。エミールの姿は見なかったらしい。曖昧に頷きながらわたしは改めて二人を見た。腕を組んで寄り添っているというのに甘い雰囲気、とは言いにくい。アルダの顔が何所と無く無関心だからだろうか。城に滞在する現状に、なのか隣りにいる男性に、なのかは分からないが。
「ちょうど良かった、少し話せないかな」
レイモンに言われ、なるべく笑顔のままでと思っていたのに顔が強張ってしまう。それに対してレイモンは慌てて首を振った。
「ああ、警戒しないでおくれ。君達の冒険の話しを聞かせてもらいたかったんだ。ローラスの冒険者学校の生徒なんだろう?学園の話しも是非聞きたくてね」
「貴方が言うと『口説き』にしか聞こえないのよ。可哀想に、怖がってる」
アルダはレイモンの組んだ腕を軽く抓ると、わたしににっこりと微笑む。救いの手が予想外の方向から伸びた形になった。
「……今日は遅いので明日でも良いですか?」
恐る恐るの返事にレイモンは微笑んでくる。
「もちろん、君らの都合の良い時に。部屋にお邪魔しようかな」
自然な流れのように言うが、部屋に?と疑問に思う。再び顔が強張りかけた時だった。
「リジア?」
廊下の中、吹き抜けの窓からきょとんとした顔でこちらを見る顔に安堵する。ローザだ。助かったとばかりに駆け寄るわたしとレイモン達を交互に見る。
「やだあ、あんたってば部屋にいないんだもの……。こんばんは」
寄り添う二人に会釈するローザにわたしは二人を紹介した。
「レイモンさんとアルダさんよ。……わたし達の冒険の話しを聞いてみたいんですって」
「あらあ、ご期待に応えられるか心配だわあ」
オカマボイスに一気に安堵感が押し寄せる。ローザが二人と握手し、レイモンが再び手を挙げた。
「じゃあ、また明日」
そう言い残し去っていく二人を暫し見て、わたしとローザも廊下を歩き出す。ふとぶつぶつ言うローザに気がついた。
「アルダ、アルダ……」
それに対してわたしが「何?」と聞くと、二人の姿が見えない事を確認してからローザは口を開いた。
「どこかで見かけた気がして……。アルダさんの方ね?」
「本当?ローザちゃんが知ってるくらいだから、どこかの貴族とか?アルダ・サルヴィ、だったかな」
わたしがフルネームを伝えるとローザはぽん、と手を叩く。
「アルダ・サルヴィ!やだあ、何で思い出せなかったのかしら!女優さんよ、彼女!」
女優、というと舞台とかで演じる人か。歌ったり踊ったりもするパワフルな人……というイメージしかない。なぜなら庶民のわたしには観劇など縁遠いものだからだ。
「あたし、彼女の舞台一度観に行った事あるのよ~。凄い人気女優だからチケットも中々手に入らなくて!自由奔放な美女が回りの男を虜にしていく話しでね。結局は一人の男と結婚するんだけど、その男が酷い嫉妬で彼女を縛るの!自由を失った彼女が狂気の世界に落ちていく演技なんか凄い迫力で!やだあ~、気付かなかったなんて!」
ローザの説明は半分程、脳をすり抜けていくが、アルダのあのオーラに納得がいく。なるほど、人気女優か。
「……明日、話しを聞きたいから部屋に来るかもよ」
わたしが伝えるとローザは身をくねらせる。
「本当!?サインとか強請って良いものだと思う?失礼かしら」
と、頬を赤らめてはしゃいでいたのが止まった。
「……部屋に?来るの?」
きょとんとしたローザの顔にわたしも溜息をつく。やっぱり変、だよね。