05章 奈良の鹿の女王
少し前の秋。
山は、かつて山だった。
等高線に沿って敷き詰められた黒光りするパネル群――メガソーラー。
陽を反射するその表面は、まるで大地に貼り付けられた無数の鏡のようで、雲の流れさえも拒んでいるかのようだった。
ドングリは、もうなかった。
熊たちは混乱していた。
長年、季節の巡りとともに受け取ってきた「当然の恵み」が、忽然と消えていたからだ。
鼻先で土を探っても、落ち葉の下には何もない。
代わりに――
山の下の方から、異様な音が聞こえてきた。
カサ、カサ、カサ。
無数の足音。
鹿の群れだった。
奈良から流れ出た鹿たちは、どこか様子が違った。
目は澄んでいるのに、動きが揃いすぎている。
まるで、ひとつの意思に導かれているかのように。
その中心で、静かに微笑む女がいた。
高地位早成子。
人の姿をしてはいるが、その背後には、鹿の角の幻影と、爬虫類の尾の気配が揺らめいている。
支配者DSに雇われた怪人。
鹿とコモドドラゴンの遺伝子を併せ持つ存在。
彼女は、こめかみに埋め込まれたマイクロチップに意識を集中させた。
「――行きなさい」
声は穏やかだった。
「奪うの。
奪われたと感じさせるの。
そうすれば、彼らは人里へ降りていくわ」
鹿たちは一斉に首を上げ、山を下り始めた。
「奈良の鹿をいじめる者も、
鹿を食べる熊も、
どちらも“古い自然”の側」
早成子の瞳が細くなる。
「新しい秩序には、整理が必要なのよ」
一方その頃、都市の片隅。
薄暗い倉庫の屋上で、グラフェンマン――リュウホウは、山の方向を見つめていた。
マントの内側で、グラフェン層が静かに振動している。
「……始まったな」
彼の隣に、ホログラムが立ち上がる。
ブレンダ・ゲッツだった。
「予測通りよ。
でも、彼女のやり方は“恐怖による調整”。
それは長くは続かない」
ブレンダの声には、焦りよりも困惑が混じっていた。
「私は、悪意のない世界支配を望んでいる。
争わせるための操作は、本意じゃない」
リュウホウは、ゆっくりと拳を握った。
「だからこそ、俺たちが動く。
支配を、庶民の側に引き戻す」
山から下りてくる鹿の群れ。
それに追い詰められ、人里へ向かわざるを得なくなる熊たち。
そして、恐怖に揺れる人間社会。
すべてが“誰かの正義”で動かされている。
「鹿も、熊も、人も――
本当は、選ばされているだけだ」
鹿鳴の仮面
大和の空は高く、乾いた風が奈良盆地を吹き抜けていた。
演壇に立つ女――**高地位早成子**は、柔らかな笑みを浮かべながらも、
どこか異様な圧を放っていた。
彼女の言葉が鹿の話へと逸れた瞬間、会場の空気が一段冷えたのを、彼女自身が一番よく理解していた。
(――予定調和は、もう古い)
支配者DSから与えられた任務は明確だった。
分断を煽れ。感情を揺らせ。理屈よりも本能を刺激しろ。
鹿。
それは単なる動物ではない。
「守るべき象徴」であり、「怒りを正当化する器」だ。
彼女の体内では、鹿の遺伝子がもたらす異様な感覚が、コモドドラゴン由来の闘争本能と静かに絡み合っていた。
人間の姿をしていながら、その瞳の奥では、群れを守る獣の本能が確かに燃えている。
「奈良の鹿をいじめるのも、鹿を食べる熊も許さない!!」
その叫びは、単なる感情論ではなかった。
敵を単純化し、善悪を明確にするための合図だった。
会場の議員たちは戸惑い、裏方は頭を抱えた。
だが――ネットの海では、まったく別の反応が渦を巻いていた。
「よく言った」
「日本の心を守れ」
「強いリーダーだ」
高地位早成子は、その反応を即座に把握していた。
彼女の背後には、DSが構築した膨大な分析網がある。
怒り、恐怖、郷愁――どの感情が、どの層に刺さるのか。
(――これでいい。民衆は、守られる存在であることを望んでいる)
一方その頃。
遠く離れた研究施設のモニター前で、ブレンダ・ゲッツは静かにその演説映像を見つめていた。
彼女は父と同じく、世界を「効率」で見ているが、そこに悪意はない。
「恐怖を使う支配ね……でも、彼女は分かっていてやってる」
ブレンダの目は冷静だった。
人々を守るために管理する。
それが彼女の理想とする「優しい世界支配」だ。
「でも、感情を煽りすぎると、制御不能になる」
その言葉に、隣の端末が低く唸る。
そこに映し出されたのは、黒く輝く人影――
グラフェンマン。
別名、リュウホウ。
彼はすでに、高地位早成子の正体に気づき始めていた。
鹿の象徴化。
敵の単純化。
そして「守る」という名の支配。
「……庶民を、守られるだけの存在にする気か」
リュウホウは静かに拳を握る。
彼が目指すのは、誰かに守られる世界ではない。
自分たちで考え、選び、修正できる世界だ。
鹿鳴く古都で始まった小さな演説は、
やがて世界支配の三つ巴を、確実に動かし始めていた。
――支配者DSの怪人。
――善意の管理者。
――庶民主導の変革者。
秋の風は、まだ静かだった。
だがその下で、確実に時代の地殻は軋み始めていた。




