第40話 「引き渡すという判断」
第40話 「引き渡すという判断」
城塞都市の朝は、もう慌ただしさだけで始まることはなくなっていた。
城門が開く時間、荷馬車が入る順番、村から届く報告の経路。
それらは誰か一人の指示を待たずとも、自然に動き始めている。
ユウは城の執務室で、静かに書類を眺めていた。
机の上に積まれているのは、各村からの定例報告だ。
ラディス村――畑の区画分けは完了。
モルティ村――じゃがいもの植え付けは予定通り。
ベイル村――炭窯の配置変更後、品質のばらつきが減少。
どれも、急を要するものではない。
だが、それこそが重要だった。
「……もう、“毎日判断しなければ止まる”段階ではないな」
独り言のように呟いた声に、リリスが顔を上げる。
彼女は机の向かい側で、別の帳簿に目を通していた。
視察に同行する役目ではなく、完全に“補佐”として座っている。
「はい。
今は、判断が必要な事柄と、現場で処理できる事柄が、はっきり分かれています」
「君の整理だね」
「……ユウ様が決めた仕組みです。
私は、それを文書に落としただけです」
淡々とした口調。
だが、否定ではない。
ユウは書類を閉じ、背もたれに軽く体を預けた。
「――そろそろ、だと思う」
「何がでしょうか」
「僕が、ここに常駐しなくてもいい時期だ」
その言葉に、リリスはすぐには返さなかった。
だが驚きはない。
「……学園へ、お戻りになるのですね」
「ああ。
このまま領地に残れば、次の段階に進める。
けれど、それは“今やるべきこと”じゃない」
ユウは窓の外に視線を向ける。
城塞都市の中庭では、人々がそれぞれの仕事に向かって動いている。
指示を待つ様子はない。
「この段階で必要なのは、追加の策じゃない。
――任せることだ」
リリスは小さく息を吸い、ゆっくり頷いた。
「はい。
村長たちも、同じことを口にしていました。
“次は、自分たちで回してみたい”と」
「失敗するかもしれない」
「ええ」
「回り道もする」
「それでも――止まりません」
即答だった。
ユウは、その言葉にわずかに笑みを浮かべた。
「なら、大丈夫だ」
◇
昼前、簡単な集まりが開かれた。
村長たち、城塞都市の代表者、炭焼きの職人頭。
顔ぶれは多くない。
ユウは席に着いたまま、ゆっくりと口を開いた。
「今日で、僕は一度この地を離れる。
学園へ戻るためだ」
一瞬、空気が揺れた。
だが、動揺は広がらない。
「不在の間、判断に迷うこともあるだろう。
その時は、無理に答えを出さなくていい」
村長の一人が、静かに頷く。
「……ユウ様がいなくても、動く、ということですね」
「そうだ。
ここは、もう“僕の領地”じゃない。
――“君たちの土地”だ」
言葉は重かったが、飾りはない。
「決めるのは、現場だ。
報告は、定期的で構わない。
緊急時だけ、王都へ連絡を回してほしい」
誰も反論しなかった。
それは、信頼の証でもある。
夕方。
城壁の上に、ユウとリリスは並んで立っていた。
街に灯が入り、作業を終えた人々が家路につく。
この光景は、もう珍しいものではない。
「……ここまで、よく来ましたね」
リリスが、静かに言った。
「来た、というより……
歩き続けていたら、いつの間にか、だ」
「それが一番難しいのだと思います」
少し間を置いて、彼女は続ける。
「ユウ様。
学園に戻っても……私は、ここを忘れません」
「僕もだ」
「また、戻ってこられますか?」
「もちろん。
ここは、途中だから」
完成でも、終わりでもない。
“続いていく場所”だ。
リリスは、ゆっくりと息を整えた。
「……では、学園では。
私は“公爵令嬢”として、ユウ様は“男爵”として」
「肩書きが増えたな」
「増えましたね」
ほんの一瞬、視線が合う。
「ですが――」
リリスは一歩だけ、距離を詰めた。
「並んで歩くことは、変わりません」
ユウは、その言葉を否定しなかった。
「それでいい」
夜。
城塞都市の灯りを背に、ユウは最後に一度だけ振り返った。
輪作は始まり、炭は安定し、人は動いている。
第一段階は、確かに終わった。
(……次に来る時は、別の顔を見せることになるだろう)
学園へ戻る。
学ぶために。
そして、戻るために。
ヴァルトニアは、もう走りはじめた。
その事実を胸に、ユウは歩き出した。
――第三章・完。




