第八話 専属メイド・マリア・ベルモンド
第八話 専属メイド・マリア・ベルモンド
専属メイドがつく。
それは、ユウ・ヴァルロードにとって環境の変化であり、生活効率の向上を意味する出来事だった。
感情的な期待はなかった。
必要だから配置される。それだけの存在。
だがその認識は、少しずつ変わっていくことになる。
◇
執務室に入ると、父の横に一人の少女が控えていた。
十三歳ほど。
背筋は伸び、視線は伏し気味。だが怯えている様子はない。
「マリア・ベルモンドと申します。本日よりユウ様の専属メイドを務めさせていただきます」
声は落ち着いていたが、どこか硬い。
そこにあるのは忠誠ではなく、職務としての覚悟だった。
「よろしくお願いします」
ユウは短く、丁寧に返した。
その一言に、マリアは一瞬だけ顔を上げる。
(……思ったより普通の子、なのかしら)
それが最初の小さな違和感だった。
◇
離れでの生活が始まる。
マリアは環境を迅速に把握し、必要な動線を整えていく。その動きに無駄はなかった。
「筆はこちらに。インクはこの位置でよろしいですか」
「はい。問題ありません」
ユウは自分の作業に集中する。
命令口調ではない。
威圧もない。
当然のように、相手を一人の人間として扱っている。
マリアは気づく。
(指図ではなく、確認……?)
それは貴族の子としては異例の態度だった。
◇
学習時間。
ユウは黙々と文字を書き、数字を並べ、式を組み立てていく。
五歳の子供とは思えない集中力。
話しかけても、苛立つ様子もない。
「少し休まれた方がよろしいのでは」
「あと少しで区切りがつきます」
その返答も理性的だった。
(……感情的ではない。でも冷たいわけでもない)
ただ、落ち着いている。
それが彼の本質なのだと、マリアは徐々に理解し始めていた。
◇
入浴の準備の際、マリアはふと尋ねた。
「離れのお風呂は小さいですが、不便ではありませんか?」
「不便はないです。こちらを使用するのがむしろ適切です」
「適切……?」
「必要以上の設備は、管理の手間が増えるだけです」
その言葉を聞いたとき、マリアの手がわずかに止まった。
(この方は……屋敷のことまで考えているの?)
自分の快適さではなく、周囲の負担を基準にしている。
それは彼女の中で、静かに評価が変わる瞬間だった。
◇
数日が過ぎ、数週間が過ぎる。
ユウは変わらない。
怒らない。
理不尽を言わない。
だが甘えもしない。
そして必ず言う。
「ありがとうございます」
「助かります」
「その判断で正しいです」
形式的ではない、自然な言葉だった。
マリアはそれに対し、次第に返答の硬さが和らいでいく。
「……承知しました」
「かしこまりました」
声の調子が、わずかに柔らかくなる。
◇
ある日、ユウが剣の練習中に転びそうになった。
すぐに駆け寄ろうとしたマリアに、ユウは言う。
「大丈夫です。怪我はしていません」
平静だった。
「……ですが」
「ありがとうございます。でも、自分で立てます」
その言葉は拒絶ではない。
安心させるための言葉だった。
その瞬間、マリアの中で何かが変わる。
(……この方は、信頼できる)
主としてではなく、人として。
◇
夜、マリアは使用人棟で静かに考えていた。
(この奉公は……悪くない)
怖くない。
理不尽でない。
安心して役目を果たせる。
それは小さい主人に対する
小さいが確かに「信頼」だった。
そしてその信頼は、日に日に揺るぎないものへと変わっていく。
◇
ユウは気づいていない。
ただいつも通り、淡々と生きているだけだ。
だがマリアの視線は、確実に変わっていた。
命じられたから仕えるのではなく、
「この方に仕えてもよい」と思える存在へ。
その感情は、まだ名を持たない。
だが確かに――
それは、始まりだった。




