第38話「婚約者としての顔、恋を知った素顔」
第38話「婚約者としての顔、恋を知った素顔」
翌朝、ヴァルトニアの城塞都市はいつも通りに動き始めていた。
鐘の音が街に広がり、職人たちが工房を開き、村からの荷馬車が城門をくぐる。
昨日までと何も変わらない風景――だが、ユウにとっては少しだけ違って見えた。
執務室の扉がノックされる。
「失礼いたします。ユウ様」
入ってきたのはリリスだった。
淡い色のドレスに、きちんと結い上げた髪。
背筋は伸び、視線はまっすぐ。
昨日、肩を預けていた少女とは思えないほど、整った“婚約者としての姿”だった。
「本日の予定を確認いたしますね」
「ありがとう。助かる」
マリアが用意した書類を手に、リリスは淡々と読み上げていく。
村からの報告、資材の割り振り、次の工事区画。
声の調子も、言葉の選び方も、完全に公のものだ。
(切り替えが早いな……)
ユウは内心で感心しつつ、同時に少しだけ寂しさも覚える。
だが、それは否定すべき感情ではない。
「午後はモルティ村ですね。畑の排水路が予定より早く仕上がったとのことです」
「確認に行こう。数字だけでは分からないこともある」
「承知しました」
そこで一瞬だけ、リリスの視線がユウに向いた。
ほんの一瞬。
だが、そこには昨日の名残のような柔らかさが宿っていた。
すぐに視線は書類へ戻る。
「……それでは、準備を整えてまいります」
そう言って退出する背中は、非の打ちどころのない婚約者だった。
◇
昼過ぎ、城塞都市の中庭。
視察へ向かう前の短い待ち時間。
ユウが外気を吸っていると、足音が近づいてきた。
「ユウ様」
振り向くと、そこにリリスが立っていた。
今度は、従者も役人もいない。
「どうした?」
「……少しだけ、お話を」
声が、わずかに低い。
公の場では聞かせない調子だ。
二人は並んで歩き、建物の影に入る。
「先ほどは……少し、よそよそしかったでしょうか」
「仕事中なら、あれでちょうどいい」
「……そう言っていただけると、助かります」
リリスは小さく息を吐いた。
「私、まだ慣れていなくて。
婚約者として、領主の隣に立つことも……
その一方で、ユウ様に対して……」
言葉が途切れる。
ユウは急かさない。
「……昨夜のことを、引きずっているように見えたら困ると思いまして」
「困らないよ」
「……え?」
「引きずっているなら、それは悪いことじゃない」
リリスの目が、少し大きくなる。
「むしろ、忘れられるほうが……僕は嫌だ」
一瞬の沈黙。
そして、リリスの頬が、ゆっくりと赤くなっていく。
「……そのようなことを、平然と仰るのですね」
「事実だから」
「本当に……ずるい方です」
声は小さいが、確かに甘い。
「公の場では、きちんといたします。
婚約者として、領主の隣に立つ覚悟もあります」
「うん」
「ですが……」
リリスは一歩だけ近づいた。
「こうして二人きりのときまで、完璧でいるつもりはありません」
「それでいい」
「……よろしいのですか?」
「むしろ、そのほうが安心する」
リリスは一瞬迷い、それから、ほんの少しだけ微笑んだ。
「では……また、時々。
学園にいた頃のように……」
「もちろん」
短い会話だったが、互いの距離は確かに縮まっていた。
◇
視察を終え、夕方。
城塞都市に戻る馬車の中で、リリスは窓の外を見ていた。
その横顔は落ち着いているが、どこか柔らかい。
「今日は、どうでした?」
「思った以上に進んでいました。
村の方々も、自分たちの土地として考え始めています」
「それは……良かったです」
言葉は丁寧だが、声にほっとした色が混じる。
「ユウ様が築こうとしているものは、数字や建物だけではありませんね」
「人の意識、かな」
「はい」
リリスは小さく頷く。
「……私も、同じです」
「?」
「婚約者として、領主の隣に立つ自分と……
ユウ様の前で、素直でいたい自分」
彼女は静かに続ける。
「どちらも、偽りではありません。
ただ……使い分けるだけです」
ユウは、それを否定しなかった。
「無理のない範囲でいい」
「はい」
短く、だが確かな返事。
馬車は城門をくぐり、夕暮れの中へ進んでいく。
公の顔と、私の顔。
婚約者としての距離と、恋を知った距離。
その両方を抱えながら、二人は同じ未来へ向かって歩いていた。
まだ急がず、まだ慎重に。
だが、確かに――並んで。




