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『異世界ダイナリー〜創造神に選ばれた僕は、婚約破棄された公爵令嬢リリスを全力で幸せにします〜』  作者: ゆう
第三章 揺らぎ出す王都と、ひとつの恋心

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第37話「婚約者という距離で、そっと触れる心」

第37話「婚約者という距離で、そっと触れる心」


 夕暮れが屋敷の窓を薄く染めていた。

 昼の視察を終え、来客も引いたあと。ヴァルトニアの城塞都市は、ようやく一日の熱を静かに手放し始めている。


 ユウは執務机から離れ、暖炉の前で書類をまとめていた。

 領地の数字、村の進捗、次の工程――頭の中では、まだ仕事が途切れていない。


「……ユウ様」


 控えめに名を呼ばれて、ユウは顔を上げた。


 リリスが、少しだけ距離を空けて立っている。

 外では凛とした佇まいを崩さなかった彼女だが、今は肩の力が抜けていた。


「お疲れではありませんか?」


「大丈夫だよ。今日は予定通り進んだ」


「……“大丈夫”の言い方が、あまり信用できません」


 その言葉に、ユウは小さく笑った。


「そんなに分かりやすい?」


「はい。視線の動きが、少し遅くなっています」


 リリスはそう言って、一歩近づく。

 その距離は、社交の場では決して許されないほど近い。


「……こちらにお座りになってください」


「命令?」


「お願い、です」


 語尾が、ほんの少し柔らかくなった。

 ユウは逆らわず、椅子に腰を下ろす。


 リリスはその隣に座った。

 肩が触れるか触れないか――ぎりぎりの距離。


「……昼間は、きちんとしなければと思っていました」


「公爵令嬢として?」


「いえ。ユウ様の婚約者として、です」


 ユウは視線を向ける。

 リリスは前を見たまま、続けた。


「この領地で、ユウ様がどれだけ真剣に向き合っているか……皆が見ています。

 ですから、私まで気を緩めるわけにはいきませんでした」


「無理はしていない?」


「……少しだけ」


 正直な答えだった。


「でも、今は……」


 リリスは、そっと息を吐く。


「今は、ユウ様の前ですから」


 その言葉は、重くない。

 甘えるための許可を、静かに求める声音だった。


「なら、少し休もう」


「はい」


 短い返事。

 けれど、嬉しさを隠しきれない。


 リリスは、そっとユウの袖を掴んだ。

 強くもなく、引き止めるほどでもない――ただ、離れてほしくないという意思だけが伝わる。


「……ユウ様」


「どうした?」


「婚約者、なのですよね。私たち」


「そうだね」


「でしたら……このくらい、許されますよね?」


 言いながら、リリスは肩を預けてきた。

 完全に体重をかけるわけではない。けれど、明確な信頼がそこにあった。


 ユウは驚かなかった。

 ただ、静かに受け止める。


「……公の場では、絶対にしませんから」


「知ってる」


「ユウ様の立場を、乱すつもりもありません」


「分かってる」


「でも……」


 リリスは小さく声を落とす。


「今は、ユウ様の隣で……少しだけ、甘えていたいのです」


 ユウは何も言わず、暖炉の火を見つめた。

 そして、ゆっくりと答える。


「それなら……婚約者として、当然の権利だ」


「……本当ですか?」


「うん」


 リリスの肩が、わずかに緩む。


「でしたら……今日は、このままで」


 それ以上は、求めない。

 触れ合いすぎない。越えない。


 けれど、確かにそこにある距離。


 ユウは、心の中で思った。


(両思いで、婚約もしていて……それでも、まだ踏み込まない)


 可笑しくもあり、同時に、とても大切な時間だった。


 リリスは目を閉じ、静かに呼吸を整えている。

 その横顔は、学園で見せていた頃の、少し幼い表情に近かった。


「……ユウ様」


「ん?」


「この領地が、落ち着いたら……」


 少し間を置いて、彼女は続ける。


「また、一緒に歩いてください。

 仕事ではなく……ただ、二人で」


「約束する」


 即答だった。


 リリスは、満足そうに微笑んだ。


「……本当に、ずるい方です」


「どちらが?」


「そうやって、迷いなく答えるところが、です」


 けれど、その声には、はっきりとした喜びがあった。


 夜は静かに更けていく。

 婚約者という名の距離は、まだ慎重で、まだ優しい。


 だが確かに――

 二人の心は、もう同じ場所を向いていた。

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