第37話「婚約者という距離で、そっと触れる心」
第37話「婚約者という距離で、そっと触れる心」
夕暮れが屋敷の窓を薄く染めていた。
昼の視察を終え、来客も引いたあと。ヴァルトニアの城塞都市は、ようやく一日の熱を静かに手放し始めている。
ユウは執務机から離れ、暖炉の前で書類をまとめていた。
領地の数字、村の進捗、次の工程――頭の中では、まだ仕事が途切れていない。
「……ユウ様」
控えめに名を呼ばれて、ユウは顔を上げた。
リリスが、少しだけ距離を空けて立っている。
外では凛とした佇まいを崩さなかった彼女だが、今は肩の力が抜けていた。
「お疲れではありませんか?」
「大丈夫だよ。今日は予定通り進んだ」
「……“大丈夫”の言い方が、あまり信用できません」
その言葉に、ユウは小さく笑った。
「そんなに分かりやすい?」
「はい。視線の動きが、少し遅くなっています」
リリスはそう言って、一歩近づく。
その距離は、社交の場では決して許されないほど近い。
「……こちらにお座りになってください」
「命令?」
「お願い、です」
語尾が、ほんの少し柔らかくなった。
ユウは逆らわず、椅子に腰を下ろす。
リリスはその隣に座った。
肩が触れるか触れないか――ぎりぎりの距離。
「……昼間は、きちんとしなければと思っていました」
「公爵令嬢として?」
「いえ。ユウ様の婚約者として、です」
ユウは視線を向ける。
リリスは前を見たまま、続けた。
「この領地で、ユウ様がどれだけ真剣に向き合っているか……皆が見ています。
ですから、私まで気を緩めるわけにはいきませんでした」
「無理はしていない?」
「……少しだけ」
正直な答えだった。
「でも、今は……」
リリスは、そっと息を吐く。
「今は、ユウ様の前ですから」
その言葉は、重くない。
甘えるための許可を、静かに求める声音だった。
「なら、少し休もう」
「はい」
短い返事。
けれど、嬉しさを隠しきれない。
リリスは、そっとユウの袖を掴んだ。
強くもなく、引き止めるほどでもない――ただ、離れてほしくないという意思だけが伝わる。
「……ユウ様」
「どうした?」
「婚約者、なのですよね。私たち」
「そうだね」
「でしたら……このくらい、許されますよね?」
言いながら、リリスは肩を預けてきた。
完全に体重をかけるわけではない。けれど、明確な信頼がそこにあった。
ユウは驚かなかった。
ただ、静かに受け止める。
「……公の場では、絶対にしませんから」
「知ってる」
「ユウ様の立場を、乱すつもりもありません」
「分かってる」
「でも……」
リリスは小さく声を落とす。
「今は、ユウ様の隣で……少しだけ、甘えていたいのです」
ユウは何も言わず、暖炉の火を見つめた。
そして、ゆっくりと答える。
「それなら……婚約者として、当然の権利だ」
「……本当ですか?」
「うん」
リリスの肩が、わずかに緩む。
「でしたら……今日は、このままで」
それ以上は、求めない。
触れ合いすぎない。越えない。
けれど、確かにそこにある距離。
ユウは、心の中で思った。
(両思いで、婚約もしていて……それでも、まだ踏み込まない)
可笑しくもあり、同時に、とても大切な時間だった。
リリスは目を閉じ、静かに呼吸を整えている。
その横顔は、学園で見せていた頃の、少し幼い表情に近かった。
「……ユウ様」
「ん?」
「この領地が、落ち着いたら……」
少し間を置いて、彼女は続ける。
「また、一緒に歩いてください。
仕事ではなく……ただ、二人で」
「約束する」
即答だった。
リリスは、満足そうに微笑んだ。
「……本当に、ずるい方です」
「どちらが?」
「そうやって、迷いなく答えるところが、です」
けれど、その声には、はっきりとした喜びがあった。
夜は静かに更けていく。
婚約者という名の距離は、まだ慎重で、まだ優しい。
だが確かに――
二人の心は、もう同じ場所を向いていた。




