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『異世界ダイナリー〜創造神に選ばれた僕は、婚約破棄された公爵令嬢リリスを全力で幸せにします〜』  作者: ゆう
第三章 揺らぎ出す王都と、ひとつの恋心

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第三十五話 婚約者が見る、新しい領地の景色

第三十五話 婚約者が見る、新しい領地の景色


 その日、ヴァルトニアの空は驚くほど澄んでいた。


 山脈の向こうから吹き下ろす風が、干上がりつつある湿地の上を渡り、城塞都市の石壁に当たって音もなく流れていく。排水路に落ちた水は細い帯になって歩みを続け、やがて大河へ向かって消えていく。


 城門の上からその景色を見下ろしながら、ユウは小さく息を吐いた。


「……今日は、リリスに見てもらえる」


 独りごとのようにこぼした声に、すぐ横で控えていたマリアが、控えめに微笑む。


「リリス様、まもなくですね」


「うん。グレイハルト領からなら、乗り継ぎなしで来くるはずだから……そろそろ城門が見えている頃だと思う」


「城塞都市の正門前、警備の者にはすでにお伝えしてあります。

 ユウ様が直接お迎えに出られる、と」


「ありがとう。ティアも一緒だろうし……驚かせないようにしないとね」


 そう言って、ユウは壁の上から視線を下ろした。


 干拓が進んだ湿地は、まだ完全に畑になったわけではない。だが、ところどころで見えるのは、規則正しく区切られた区画と、その上で動く人々の影だ。

 ラディスとモルティの両村から来た者たちが、今日もスコップを手に土を返している。


「ユウ様」


 マリアがそっと声をかける。


「リリス様は、きっと驚かれますね。

 まだ2ヶ月も経っていないのに……ここまで変わったヴァルトニアを見たら」


「……驚いてくれたら、少し嬉しいかな」


 自分で言って、ユウは苦笑する。


「領主としてなら、“順調ですね”くらいの評価で十分なんだけど。

 婚約者としては、ちょっとくらい格好つけたいから」


「ふふ……それなら、本日ばかりは思いきり格好をつけていただいて構いませんよ」


 マリアがからかうように言ったちょうどその時、城門の見張り台から声が飛んだ。


「ユウ様! グレイハルト公爵家の紋章旗を掲げた馬車が接近中です!」


「来たね。下に降りよう、マリア」


「はい。お供いたします」


 二人は石段を降り、城門の前まで歩いていく。


 しばらくすると、土煙を上げながら一台の馬車が近づいてきた。

 深い紺の布地に銀糸で刺繍されたグレイハルト家の紋章旗が風に揺れ、その後ろから従者の騎馬が数名続く。


 だが、随伴の数は必要最低限だ。

 ここが「未来の夫の新領地」だからこそ、過度な威圧感を持ち込まないよう配慮されているのだろう。


 馬車が門前で止まり、御者が素早く降りて扉を開ける。


 最初に現れたのは、赤毛をひとつに結わえた小柄な少女――ティアだ。

 動きはきびきびとしているが、視線は常に周囲を警戒している。孤児出身で鍛えられた反射が、無意識に出ているのだろう。


 そのすぐ後ろから、淡い銀の髪が光を受けて現れた。


 リリス・フォン・グレイハルト。


 今日の彼女は、王城で着るような華やかなドレスではなかった。

 上半身は上質な深緑のジャケットドレス、その下には動きやすい薄い生成りのスカート。裾は土に触れない程度の控えめな丈で、歩くたびに柔らかく揺れる。

 旅路と視察を意識した、機能性のある装い――それでも、彼女が纏うと自然と視線を奪う。


 胸元には、細い銀の鎖に吊るされた小さな飾りが光っていた。ユウが贈った、ヴァルトニアの紋様をあしらったペンダントだ。


 リリスは城門の前で足を止め、ゆっくりと頭を下げた。


「お招きいただき、ありがとうございます。

 グレイハルト公爵家令嬢、リリス・フォン・グレイハルトです。

 本日は、公爵家を代表して――そして、ユウ様の婚約者として、ヴァルトニア領を拝見させていただきます」


 その声音は、学園で見せる「公爵令嬢としての顔」そのものだった。


 ユウは一礼を返し、少しだけ表情を和らげる。


「こちらこそ、ようこそお越しくださいました。

 ヴァルトニア領主、ユウ・ヴァルトニアです……と言うのも、まだ少し慣れないけれど」


 リリスの唇が、かすかに笑みの形をつくる。


「ふふ……そのお言葉は、少し不思議ですね。

 領地の方々は、もうとっくに“領主様”として見ておられると思いますのに」


「そう見えているといいんだけど。

 まあ、今日は実物を見てもらいながら、そのあたりの評価もお願いしようかな」


「喜んで。

 ……その前に、一言だけよろしいですか?」


 リリスは、ほんのわずかに距離を詰めた。

 マリアや従者たちには聞こえるが、城門の兵には届かないくらいの声量で。


「ユウ様。こうして“あなたの領地”に来られて……とても嬉しいです。

 あの夜、廊下で泣いていた私に、未来の話をしてくださった方の隣に――今度は笑って並べるのですから」


 その言葉に、ユウの胸がわずかに熱くなる。


「……それを聞けたなら、ここまで準備した甲斐があったよ」


「期待してしまいますね。

 グレイハルト領の令嬢として、しっかり拝見いたします」


 そのやりとりを見届けながら、マリアは静かに礼をした。


「お久しゅうございます、リリス様。

 ヴァルロード伯爵家、ユウ様付きメイドのマリア・ベルモンドでございます」


「マリアさん。こちらこそお久しぶりです。

 学園でお見かけすることが少なくなって……少し寂しかったです」


「身に余るお言葉です。

 今は主にヴァルトニアでの内政に携わっておりますので……本日は、ささやかながらご案内のお手伝いをさせていただきます」


「心強いですね。

 ユウ様とマリアさんが揃っているなら、きっと“面白い説明”が聞けそうです」


 言葉は穏やかだが、その瞳の奥にはほんの少しだけ、女性らしい張り合いが見え隠れする。


(……マリアさんとユウ様の組み合わせは、とても自然です。

 だからこそ、少しだけ胸がざわつきますけれど――)


 リリスはその感情を、表情の端でそっと押さえ込んだ。


「ティア」


 彼女が振り向くと、赤毛の少女はきちんと頭を下げる。


「はい、リリス様」


「本日は公の場ですが、あくまで友人の領地にお邪魔している立場です。

 堅くなりすぎず、しかし礼は尽くしてくださいね」


「……はい。努力します」


 ティアの返事はぎこちないが、その瞳は真剣だ。


 ユウは二人を見比べ、軽く息を吸った。


「では――ようこそ、ヴァルトニアへ。

 まずは城塞都市の中をご案内します。

 その後、干拓地と村を見ていただければ、だいたいの全体像が掴めると思う」


「はい。よろしくお願いいたします、ユウ様」


 リリスの声は、少しだけ弾んでいた。


     ◇


 城塞都市の内部は、かつてよりも人の動きが増えていた。


 広場の一角には、仮設だったはずの診療所が、半ば常設施設のような顔をして立っている。

 そこから出てきた子どもが、包帯の巻かれた腕を嬉しそうに振っていた。


「……診療所、でしょうか?」


 リリスがつぶやくと、ユウは頷いた。


「怪我や病気を治すだけじゃなくて、衛生の話をする場所にもしているんだ。

 手を洗うこと、井戸の近くで物を捨てないこと……そういう、当たり前に見えることを、言葉にして伝える場所」


「“当たり前”は、誰かが教えてくれなければ身につきませんものね」


 リリスは窓の向こうで、医師と話す村の女性を見つめた。


「この都市が変わったと聞いていましたが……“建物”だけでなく、“人の考え方”も変えようとしているのですね」


「そこまで大げさなものじゃないよ。

 ただ、病気で子どもを失いたくない親は、どこにでもいるから」


 淡々と返すユウの横で、マリアが静かに補足する。


「診療所に来られた方には、簡単な記録を書いていただいているんです。

 どの村の、どういう暮らしの方が、どのような症状で来られたのか……

 それを集めることで、どの場所に課題があるか、少しずつ見えてきております」


「……なるほど」


 リリスの目がわずかに細まる。


「治すだけではなく、原因を探って“次に備える”仕組みですね。

 ユウ様らしい考え方です」


「褒め言葉として受け取っておくよ」


 屋台の並ぶ通りを抜け、彼らは城塞都市の外へ向かう通用門へ歩いていった。


 門を抜けると、視界が一気に開ける。


 かつて一面の湿地だった場所に、いくつもの筋が描かれていた。

 排水路と干拓予定地、それらを守る土塁の線。

 まだ未完成だが、「これから何をするのか」が一目で分かる景色だった。


「……これは」


 リリスが、思わず息を飲む。


「地図で見せていただいた輪中の構造が……もうここまで」


「まだ輪になりきっているわけじゃないけどね。

 今は“輪郭を描いている途中”というところかな」


 ユウは、湿った土の上に足を踏み出した。


「危険な場所はあらかじめ線を引いて、近づかないようにしてある。

 今日は足元が安定しているところだけ歩こう。リリス様に泥を跳ねさせたら、公爵に怒られそうだし」


「それは困りますね。

 ……ですが、少しくらいなら構いませんよ?」


 リリスはそう言って、スカートを少しだけ摘まみ上げた。

 足首まで覆うブーツが、旅装であることを物語っている。


「ユウ様の領地を見に来て、何ひとつ土に触れずに帰るのは、なんだか惜しい気がしますから」


「その言い方をされると、案内する側としても張り切りたくなるね」


 ティアは無言で二人の少し後ろを歩きながら、足元の状態を細かく確認している。

 マリアは反対側からリリスを見守り、必要なら腕を支えられる位置を維持していた。


 やがて、一角にだけ草の色が違う場所にたどり着く。


 柔らかな緑の絨毯のような植物が、風に揺れていた。


「ここが……クローバー、ですね?」


「そう。輪作の要になる作物だ。

 まだ植えて間もないけれど、根が土を掴み始めている」


 ユウがしゃがみ込むと、リリスもスカートの裾を気にしながら、そっと腰を落とす。


 指先で土に触れた瞬間、彼女の目が見開かれた。


「……やわらかいです。

 表面だけでなく、中まで空気が入っている感覚があります」


「もともとの泥は、握ると固まって、乾くとひび割れるだけだった。

 でも水の流れを変えて、クローバーに根を張ってもらえば……

 少しずつだけど、指が入る土になる」


「“指が入る土”……」


 リリスは、その言葉を静かに繰り返した。


「グレイハルト領では、肥えた土を前提に作物を育てていました。

 けれど、こちらは“土そのもの”から作っておられるのですね」


「そうする必要があったからね」


 ユウは、掌に乗せた土を軽く崩した。


「この土が変われば、作れる物が増える。

 作れる物が増えれば、この地で暮らせる人の選択肢も広がる。

 ……そんな場所にしてみたいと思ったんだ」


「選択肢……」


 リリスの指先が、クローバーの葉をそっと撫でる。


「この領地で生まれた子どもが、“生まれた場所だけ”で未来を決められずに済むように。

 そういう願いが込められているのですね」


「そこまで立派な言い方をすると、少し照れるよ」


「いえ。

 ユウ様は、いつもそういう視点で物事を考えておられます」


 リリスは顔を上げ、まっすぐにユウを見た。


「私があの舞踏会で“立っているしかできなかった”時も。

 学園で噂が変わっていく中、静かに支えてくださった時も。

 ……今日、こうしてヴァルトニアを見て、確信しました」


「何を?」


「あなたは、“誰かが自分で選べる場所”を作ろうとしている方です。

 この領地も、学園も、王都も……そして、私も」


 ティアが、少しだけ視線を伏せる。


(……リリス様の言葉は、いつだってまっすぐだ)


 マリアはわずかに微笑み、二人のやりとりから目を逸らさないようにしながら、心の中で呟いた。


(――本当に。

 このお二人が並んで立つ未来を、きちんと形にしなくては)


     ◇


 午後には、炭焼きの村ベイルを訪れた。


 以前より整えられた炭焼き場で、村人たちが白炭を窯から取り出している。

 灰を払われた炭は、薄い光沢を帯びた白銀色に近かった。


「これが……ヴァルトニアの白炭」


 リリスは、差し出された一本にそっと触れた。


「とても滑らかですね。

 表面にひびがほとんどありません」


「乾燥した土地と、窯の位置を整えた効果だと思う」


 ユウは、あえて難しい表現を避けながら続けた。


「同じ木を燃やしても、空気の入り方と温度の通り道が変われば、出来上がりは違ってくる。

 それを何度も試して、今の形に落ち着いたんだ」


「“落ち着く”までに、どれだけの失敗があったのでしょう」


 感心したように見つめるリリスに、村長が恐縮したように頭を掻く。


「最初は、もう、見るも無残でしてな……。

 ですがユウ様が、『失敗した分だけ次は良くなる』って、はっきり言ってくださって」


「その言葉に救われた方は多いと思います」


 リリスは素直に告げた。


「失敗を叱る貴族は多いですが、“次に繋げる”と口にしてくださる方は少ないですから」


 ユウは肩を竦めて笑う。


「僕だって失敗しているからね。

 それを一度も認めないまま進んだら、どこかで止まるだけだよ」


 その言葉に、マリアとティアが同時に目を細めた。


(そうやって、自分を少し下に置くところが――)


(――だからこそ、この人の言葉に皆がついていくのだ)


 それぞれの胸の内で、同じような答えが浮かぶ。


     ◇


 夕刻。


 視察を終え、四人は城塞都市の城の最上階にあるバルコニーに立っていた。


 西の空は赤く染まり、ラディスとモルティの方角に小さな灯りが点々と見える。

 それは、人々が家々で火を灯し、食卓を囲み始めた合図だった。


「……綺麗ですね」


 リリスが、自然にそう言った。


「グレイハルト領の都市とは違う光ですが、とても落ち着きがあります。

 ここに暮らす人たちの息遣いが、そのまま空に浮かんでいるような」


「そう感じてもらえたなら、嬉しいな」


 ユウは欄干に肘をつき、遠くの灯を数えるように視線を彷徨わせた。


「ここから、まだやることはたくさんある。

 西の村の整備が終わったら、今度は城塞都市の中で商いを始める人の支援を考えたい。

 炭と農産物の流れを整えたら、次は家畜と……」


 言いかけて、少し苦笑する。


「また、いろいろ詰め込み過ぎているかもしれないけれど」


「詰め込み過ぎだと思います」


 はっきりと告げたのは、マリアだった。


「けれど――それだけヴァルトニアのことを考えてくださっている証でもあります。

 ですから、私はその計画を、一つずつ実現しやすい形に変えていくのが役目だと思っております」


「マリアさんらしいお言葉ですね」


 リリスがふと笑う。


「ユウ様は大きな流れを考えて、マリアさんがそれを日常の“形”にしていく。

 ……とても、素敵な組み合わせだと思います」


「お褒めにあずかり、光栄です」


 マリアは礼儀正しく頭を下げたが、その声音にはどこか照れが混じっていた。


「ティア」


 リリスが振り向くと、赤毛の少女は姿勢を正す。


「はい」


「この景色、どう思いますか?」


 突然振られた問いに、ティアは少し戸惑ったように空を仰いだ。


「……すごい、と思いました」


「どのあたりが、ですか?」


「昔……街の外を歩くと、薄暗い場所が多かったんです。

 でも、今はあちこちに火が見えて……

 “ここに住んでいいんだ”って言ってもらえているみたいで」


 その言葉は拙いが、飾りがなかった。


 リリスは満足げに頷く。


「それが、この領地の答えなのだと思います。

 ――ユウ様」


「うん?」


「私は、公爵家の娘としてこの地を見に来ました。

 けれど今は、婚約者として――こう言わせてください」


 リリスは、夜の訪れかけた空の下で、まっすぐにユウを見据えた。


「あなたが選んだこの土地で、あなたが描く未来を、一緒に見ていきたいです。

 ヴァルトニアがどのように変わっていくのか、どんな人たちが暮らす場所になるのかを、隣で見守りたいと思っています」


 その言葉は、静かな告白に近かった。


 ユウは、ほんの一瞬だけ視線を逸らし、それからゆっくりとリリスの瞳を見返す。


「……ありがとう。

 そう言ってもらえるなら、この夏の寝不足も報われるよ」


「寝不足にしてしまったのは、ヴァルトニアではなくユウ様ご自身ですね?」


 リリスが少しだけ頬を膨らませる。


「過剰に働き過ぎる癖は、王都にいた頃から変わっていないのですから。

 マリアさんも、しっかり見張っていてくださいね」


「承知いたしました」


 マリアは、わずかに口元を引き締めて答える。


「リリス様のお言葉とあれば、今後は遠慮なく“休息”を勧めさせていただきます」


「二人が揃ってそう言うと、さすがに逆らいにくいな……」


 ユウが肩を落とすと、三人の間に柔らかな笑いが生まれた。


 城塞都市の灯りは、ゆっくりと夜の深みに溶けていく。

 夏季休暇は、もう終わりに近づいていた。


 だが――ヴァルトニアの物語は、まだ始まったばかりだ。


 干拓途中の湿地も、石を積み上げただけの仮の家屋も、白炭の窯も。

 そのすべてが、これから先の“未来の形”を待っている。


 そして、その未来を共に見つめる婚約者も――

 今、同じ景色を見上げていた。


「ユウ様」


 リリスが、夜空を見上げたまま静かに呼ぶ。


「はい?」


「今日、ヴァルトニアに来て……ひとつ、欲張りな願いができました」


「どんな願い?」


「この領地が変わっていく過程を、できるだけ近くで見たいです。

 ユウ様が笑っている時も、悩んでいる時も……

 そのどちらも知っていけるくらいには、そばにいたいと思いました」


 その言葉に、ユウは少しだけ目を見開き、それからゆっくりと笑った。


「それは――とても嬉しい欲張りだね。

 僕も、君に見てほしい景色がたくさんあるから」


 夏の夜風が、四人の髪をなでる。


 ヴァルトニアの空に灯る小さな光は、ひとつひとつがまだ頼りない。

 それでも、その下で生きる人々と、それを導こうとする少年と。

 その隣に立つ、赤い瞳の婚約者がいた。


 新しい領地の物語が、今、静かに幕を開けた。

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